2013年5月17日金曜日
日本文化の諸相 俳句
水取りや 氷の僧の 沓の音 (野ざらし紀行 芭蕉)
「白隠(1685~1768)の「座禅和讃」を見ても、「衆生本来仏なり。
水と氷のごとくにて」と衆生本来仏だ、水と氷のようなものだと言って
いるが、これが華厳経だけでなく、大乗仏教の基本的な考え方である。」
鎌田茂雄「華厳の思想」
鎌田氏は柳生但馬守宗矩の禅の師である沢庵宗彭(そうほう)の「不
動智神妙録」から引用して、次のように説明している。
「これによると、本心というのは1ヵ所に固まらず、全身全体に広がる
心であるのに対して、1ヵ所に固まり、思いつめたる心が妄心であると
いう。これを喩えていえば本心は水、妄心は氷のようであり、本心は水
のように1ヵ所に止まることなく、妄心は氷のように水がこりかたまった
ものであるという。」
不動智神妙録 沢庵宗彭
本心盲心と申す事の候。本心と申すは一所に止まらず、身体全体に延
びひろごりたる心にて侯。妄心は何ぞ思いつめて一所に固り候心にて、
本心が一所に固り集りて妄心と申すものに成り申し候。本心は失ひ候
と所々の用が欠ける程に失はぬ様にするが専一なり、たとえば本心は
水の如く一所に留まらず、妄心は氷の如くにて、氷にては手も頭も洗は
れ不申候、氷を解かして水と為し、何処へも流れるやうにして手足をも
何をも洗うべし、心一所に固り一事溜り候へば、氷固まりて、自由に使
われ申さず、氷にて手足の洗はれぬ如くにて候、心を溶かして総身へ
水の延びるやうに用い、其所に遣りたきままに遣り使い候、是れを本心
と申し候。
白隠禅師座禅和讃を参考として掲げておく。
衆生本来仏なり 水は氷の如くに 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ たとえば水の中に居て
渇を叫ぶが如くなり 長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり 闇路に闇路を踏そえて
いつか生死を離るべき
夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり 布施や持戒の諸波羅密
念仏懺悔修行等 そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ 悪趣何処にありぬべき
浄土即ち遠からず かたじけなくもこの法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし 況や自ら回向して
直に自性を証すれば 自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり
因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し 無相の相を相として
行くも帰るも余所ならず 無念の念を念として うたうも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん この時 何をか求むべき
寂滅現前するゆえに 当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり
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