2013年8月9日金曜日

源氏物語と仏教 薪の行道


法華八講 薪の行道(五卷の日)
 平安貴族の法要の中でもとりわけ華やかなのが、「五卷の日」の薪の
行道である。これは、本尊または堂塔の周囲を右回りに巡るものである。
 釈尊は千年の間、仙人に仕え、木の実を採り水を汲み、薪を拾い食事
の支度をし、時には仙人の腰掛けになって、法華経の教えを授かった。
 一般的な行道では、僧達が華籠を手にして、散華しながら巡るが、法華
八講では釈尊の苦行を偲んで、薪や水桶、菜籠などを背負った人々が加
わり、「法華経を我が得しことは薪こり菜摘み水汲み仕えてぞ得し」という
法華讃嘆を唱えながら回った。その後を捧物を捧げ持つ参会者が続いた。
 栄花物語、小右記、中右記などには、誰の捧物は何で誰が持って巡った
か、と詳細に書かれている。捧物には各参会者が競って趣向を凝らし、絢
爛豪華な品々が供えられた。
 「御堂関白記」によれば、藤原道長は寛弘元年五月一九日発願で東三
女院詮子追善八講で一条天皇、花山院、中宮彰子から捧物を賜っている。

 法華八講は、比叡山天台宗の顕教的な経典を中心としており、千年とい
うとうてい不可能な修行であり、真言密教の即身成仏という修行とは大きく
異なっている。源氏の恋の病という煩悩は一向に修まることはなく、后階級
との禁忌とトラブルは、源氏を須磨へ追いやることになる。









2013年8月8日木曜日

源氏物語と日本人の信仰


 「六十卷といふ書、読みたまひ、おぼつかなきところどころ解かせな
 どしておはしますを、「山寺にはいみじき光行なひ出だしたてつまれ
 り」と、「仏の御面目あり」と、あやしの法師ばらまでよろこびあへり。」
                                 源氏物語 榊                           
 「源氏は天台の経典六十卷を読んで、難解な所を僧たちに聞いたりな
 どして過ごしているのを、「山寺には輝くばかりの光が差すような行で
 ある」と、「仏には名誉なことである」と、身分の低い僧たちまでも喜こ
 びあっている。」

 「十二月十余日ばかり、中宮の御八講なり。いみじう尊し。日々に供養
 ぜさせたまふ御経よりはじめ、玉の軸、羅の表紙、帙簀の飾りも、世に
 なきさまにととのへさせたまへり。さらぬことのきよらだに、世の常なら
 ずおはしませば、ましてことわりなり。仏の御飾り、花机の簀おほひなど
 まで、まことの極楽思ひやらる。初めの日は、先帝の御料。次の日は、
 母后の御ため。またの日は、院の御料。五卷の日なれば、上達部など
 も、世のつつましさをえしも憚りたまはで、いとあまた参りたまへり。今日
 の講師は、心ことに選らせたまへれば、「薪こる」ほどよりうちはじめ、
 同じう言ふ言の葉も、いみじう尊し。親王たちも、さまざまの棒物ささげ
 めぐりたまふに、大将殿の御用意など、なほ似るものなし。常におなじ
 ことのやうなれど、みたてまつるたびごとに、めづらしからむをば、いか
 がはせむ。」 源氏物語 榊

 「十二月十日過ぎころ、中宮の御八講である。たいそう荘厳であった。
 日々の供養の御経をはじめ、玉の軸、羅の表紙、帙簀の装飾も、極上
 のものを用意された。日常の品の装飾にも、この上もなくきよらかで立
 派なものを整えていた位だったから、この日の荘厳さと言ったらない。
 仏像の飾りや花机の覆いなどまで、本当の極楽浄土が想起されるよう
 だった。初めの日は、中宮の父帝の御菩提のため、次の日は母后のた
 め、三日目は故院の御菩提のためで、法華経の第五卷の講義の日で
 あったから、上達部も現在の権勢に憚ることなく、多くの者が参上した。
 今日の講師は、特に厳選されているので、「法華経かいかにして得し薪
 こり菜摘み水汲み仕えてぞ得し」という歌が唱えられはじめると、同じ言
 葉でもたいそう尊く思われるのだった。仏前に親王方も様々の供物を捧
 げて行道なさるが、源氏の優美な装いなど、やはり他の人の追随を許す
 ものではない。いつものことだが、拝見するたびに素晴らしいのはどうし
 たことだろうか。」
 
故院の一周忌から法華八講が行われるが、これは平安時代初頭に死者
の追善供養を目的として営まれて以降、盛んに平安貴族の間に広まった。
具体的には、読師が経題を唱えて講師が経文を講釈し、さらに間者が教
義上の質問をして講師がそれに答え、精義が門答を判定、堂達が進行を
司る。天台宗の根本経典である法華経は、「護国も経典、成仏の直道」と
して、平安貴族に篤く信仰された。













2013年7月30日火曜日

源氏物語と日本人の信仰 加持祈祷


加持祈祷
密教とは簡単に言えば、薬のようなもので、病気になったら、薬を処方
するようなもので、これが加持祈祷にあたる。顕教は病気にならないよ
うに、日頃から因果応報を知り、生活の規律を守り、智恵を学ぶことだ。
病気になって説法したところで効果はない。回復してから説法すれば効
果は高いだろう。煩悩を断ち切る方法として加持祈祷を用いる。因果応
報を知ることも大切で、瞑想によって考えを深める。瞑想のやり方もマ
ニュアル化されている。

 「大将の君は、宮をいと恋しう思ひきこえたまへど、「あさましき御心の
 ほどを、時々は、思い知るさまにも見せたてまつらむ」と、念じつつ過ぐ
 したまふに、人悪ろく、つれづれに思さるれば、秋の野も見たまひがて
 ら、雲林院に詣でたまへり。」 源氏物語 榊

 「源氏は中宮をとても恋しく思いながらも、つれない御心の報いを思い
 知ればいいと、念じるように過ごしていたが、狂おしいくらいに中宮の
 ことが想い起こされ、気持を紛らすために、秋の野も眺めがてら、雲
 林院に参詣した。」

雲林院
 淳和天皇の離宮・紫野院が後に、花山に元慶寺を建立した僧正遍昭
に託され、官寺「雲林院」となる。雲林院の菩提講は、「今昔物語」、「大
鏡」にも登場し、古今和歌集や謡曲「雲林院」の題材にもなった。桜、紅
葉の名称としても知られる。
 雲林院境内には、「紫式部産湯の井戸」があり、紫式部はこの周辺で
生まれ育ったとされる。紫式部の墓所伝承地も雲林院近くにある。
 遍昭は、天台密教を完成させた円仁・円珍に師事した。六歌仙の一人。

 「故母御息所の御兄の律師の籠もりたまへる坊にて、法文など読み、
 行なひせむ」と思して、二、三日おはするに、あはれなること多かり。
 紅葉やうやう色づきわたりて、秋の野のいとなまめきたるなど見たま
 ひて、故里も忘れぬべく思さる。法師ばらの、才ある限り召し出でて、
 論議せさせて聞こしめさせたまふ。所からに、いとど世の中の常なさ
 を思し明かしても、なほ「憂き人しもぞ」と、思し出でらるるおし明け方
 の月影に法師ばらの閼伽たてまつるとて、からからと鳴らしつつ、菊
 の花、濃き薄き紅葉など、折り散らしたるも、はかなげなれど、「この
 かたのいとなみは、この世もつれづれならず、後の世はた、頼もしげ
 なり。さも、あぢきなき身をもて悩むかな」など、思し続けたまふ。」
                               源氏物語 榊

 「源氏の母君の桐壺の御息所の兄君の律師がいる寺へ行って、経
 を読んだり、勤行もしようと思って、二、三日こもっているうちに身に
 しむことが多かった。紅葉はいっそう色づきわたって、秋の野の妖艶
 な様を見て、家のこともすっかり忘れてしまいそうである。学僧だけを
 選んで討論をさせて聞いた。所がら、人生の無常さばかりをつくづく
 思ってみても、歌にあるように、なを「つれない人が恋しく忘れられな
 い」と、思い出される。明け方の月影のもとで、僧たちが閼伽を仏に
 供えるために、からからと音をさせながら、菊や濃淡の混ざった紅葉
 などを折り散らしているのも、ちょっとしたことではあるが、僧の営み
 は、この世で退屈することなく、後の世が期待できるものだ。自分は
 なんとも、厭わしい境遇をもてあまし煩悶していることであろう か。」 
                                与謝野晶子訳

山寺の営みやたたずまいに、源氏は心引かれながらも、中宮への思い
は消えない。「天の戸を押し明け方の月みれば憂き人しもぞ恋しかりけ
る」古今集の恋の歌を引き合いに、恋の煩悶という無明のあけることは
ない。







 







2013年7月29日月曜日

源氏物語と日本人の信仰心 罪の意識


中宮(藤壺)と源氏の恋

 「かやうのことにつけても、もて離れつれなき人の御心を、かつはめで
 たしと思ひきこえたまふものから、わが心の引くかたにては、なほつら
 う心憂し、とおぼえたまふ折多かり。」 源氏物語 榊

 「源氏は尚侍との関係をもちながらも、隙をまったくお見せにならない
 中宮(藤壺)をごりっぱであると認めながらも、恋する心には恨めしくも
 悲しくも思うことが多かった。」与謝野晶子訳

 「また、頼もしき人もものしたまはねば、ただこの大将の君をぞ、よろづ
 に頼みきこえたまへるに、なほ、この憎き御心のやまぬに、ともすれば
 御胸をつぶしたまひつつ、いささかもけしきを御覧じ知らずなりにしを思
 ふだに、いと恐ろしきに、今さらにまた、さる事の聞こえありて、わが身
 はさるものにて、東宮の御ためにかならずよからぬこと出で来なむ、と
 思すに、いと恐ろしければ、御祈りをさへせさせて、このこと思ひやませ
 たてまつらむと、思しいたらぬことなく逃れたまふを、いかなる折にかあ
 りけむ、あさましうて、近づき参りたまへり。心深くたばかりたまひけむこ
 とを、知る人なかりければ、夢のやうにぞありける。」 源氏物語 榊

 「また、東宮の後援者も他にいなかったので、ただこの源氏だけを万事
 にわたり頼りにしていたが、今でも源氏は藤壺を御当惑させるようなこと
 が止まなかった。源氏との不義密通に御胸を痛めつつ、少しもひとの気
 持ちを察しないと思うことさえ、とても恐ろしく、院が崩御した後、またその
 ような関係をもつことは、自分はともかくも、今さら、源氏との不義の子で
 ある東宮のために必ず大きな障害となることが起きるであろうと、御心配
 になって、ひそかに祈祷までもさせて、源氏の恋を仏力で止めようと、でき
 る限りのことを尽くして、源氏の情炎から身をかわしておいでになるが、あ
 る時思いがけなく源氏が御寝所に近づいた。慎重に計画されたことであっ
 たから知る人もなく、宮様にはまるで夢のようであった。」 与謝野晶子訳

藤壺は深い思慮と罪の意識の滅罪のために、修験者に祈祷を頼み、源氏
の情炎を思いとどまらせようとする。藤壺はこの罪の意識で悩み続けること
になる。桐壺帝の崩御後も、罪の意識は深まり、東宮の将来を心配するの
である。母性愛の方が、恋愛より優っていたということなのでしょうか。
 
















 



2013年7月28日日曜日

源氏物語と日本人の信仰心 五檀の御修法


 「わづらはしさのみまされど、尚侍の君は人知れぬ御心し通へば、
 わりなくてと、おぼつかなくはあらず。五檀の御修法の初めにて、
 慎みおはします隙をうかがひて、例の、夢のやうに聞こえたまふ。
 かの、昔おぼえたる細殿の局に、中納言の君、紛らはして入れ
 たてまつる。人目もしげきころなれば、常よりも端近なる、そら恐
 ろしうおぼゆ。
  朝夕に身たてまつる人だに、飽かぬ御さまなれば、まして、め
 づらしきほどにのみある御対面の、いかでかはおろかならむ。
 女の御さまも、げにぞめでたき御盛りなる。重りかなるかたは、
 いかがあらむ、をかしうなまめき若びたる心地して、見まほしき
 御けはひなり。」 源氏物語 榊

 「昔よりもいっそう恋の自由のない境遇にいても尚侍は絶えず
 恋をささやく源氏と文を交わしていたので、幸福観がないでも
 なかった。宮中で行わせられた五檀の御修法(みずほう)のた
 めに帝が御謹慎をしておいでになる頃、源氏は夢のように尚侍
 へ近づいた。昔の弘徽殿の細殿の小室へ中納言の君が導いた
 のである。御修法のために御所へ出入りする人の多い時に、こ
 うした密会が、自分の手で行われることを中納言の君は恐ろしく
 思った。朝夕に見て見飽かぬ源氏を稀に見た尚侍の喜びが想像
 される。女も今が青春の盛りの姿と見えた。貴女らしい端厳さなど
 は欠けていたかもしれぬが、美しくて、艶で、若々しくて男の心を
 十分に惹く力があった。」与謝野晶子訳

五檀の御修法とは、比叡山中興の祖・良源(912年~985年)が平
安貴族たちに広めた五大明王を本尊とする五檀法で、調伏の法
(怨霊などを討ち破る法)として用いられた。五大明王とは、不動
明王、降三世明王、軍荼利夜叉、大威徳明王、金剛夜叉である。

「紫式部日記」には、中宮彰子の安産を妨げようとする怨霊を調
伏する五檀法が克明に描かれている。

 「御帳のひむがしおもては、うちの女房まゐりつどひてさぶらふ。
 西には、御物のけうつりたる人々、御屏風一よろひを引きつぼ
 ね、つぼねぐちには几帳を立てつつ、験者あづかりあづかりの
 のしりゐたり。南には、やむごとなき僧正・僧都かさなりゐて、不
 動尊の生きたまへるかたちをも、呼びいであらはしつべう、たの
 みみ、うらみみ、声みなかれわたりにたる、いといみじう聞こゆ。」

 「中宮様の伏される御帳台の東面の間には内裏から一緒につい
 てきた女官たちが集まって控えている。西面の間には物の怪が
 乗り移ったよりましの人々を一人ずつ屏風で囲い、その出入り口
 に几帳を立てて、各修験者が一人一人を受け持って大声で祈祷
 をしている。南面の間には、貴い僧正や僧都が何重にも座ってい
 て、生ける不動明王のお姿を呼び出さんばかりに、頼みつ恨みつ、
 みな声も嗄れ果ててしまっているのがなんとも尊く聞こえる。」
                      宮坂宥勝著「不動信仰辞典」
 

















2013年7月12日金曜日

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2013年6月12日水曜日

野ざらし紀行 小夜の中山


  
           馬に寝て 残夢月遠し 茶の煙    小夜の中山

 20日余りの月がかすかに見えて、山の麓の暗い中を、馬に鞭を垂れ
て数里旅して来たが、いまだ鶏は鳴かない。杜牧が詠んだ「早行」の残
夢は小夜の中山まで来ると驚いて目が覚めた。西行の詠んだ小夜の中
山である。
 
 年たけて また越ゆべしと 思いきや 命なりけり 小夜の中山
 風になびく 富士の煙の 空に消えて 行方も知らぬ わが思ひかな

                                      西行

 小夜の中山には、芭蕉の「涼み松」があったと言われる処に、芭蕉の
句碑がある。
            命なりわづかの笠の下涼み
「野ざらし紀行」には載っていないが、小夜の中山で詠んだと云う。


小夜の中山と夜泣き石