2012年6月24日日曜日

額田王 宇治のみやこの仮廬



[題詞]明日香川原宮御宇天皇代 [天豊財重日足姫天皇] / 額田王歌 [未詳]

秋の野の み草刈り葺き宿れりし 宇治の宮処の 仮廬し思ほゆ

[左注]右檢山上憶良大夫類聚歌林曰 一書戊申年幸比良宮大御歌
 但紀曰 五年春正月己卯朔辛巳天皇至自紀温湯 三月戊寅朔天皇
幸吉野宮而肆宴焉 庚辰日天皇幸近江之平浦[校異]辰 [元][冷] 辰ム


<メモ>
万葉仮名覚書 金(秋) 美草(すすき、茅等)屋杼(宿) 兎道(宇治うぢ)
 借五百(かりいほ)


(注)明日香川原宮御宇天皇代斉明天皇
 天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)
  皇極天皇4年(645年)6月、中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を討つ。
  (大化の改新)極天皇は同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に皇位を譲る。
  孝徳天皇の崩御後、62歳のとき飛鳥板蓋宮で再び皇位に就いて、斉明天
  皇となる重祚 )。この年の末に板蓋宮は火災に遭い焼失した。斉明天
  は川原宮へ遷った。


 川原宮 日本書紀によると、655年の冬、板蓋宮が火災に遭ったため、斉明
 天皇は川原宮へ遷ったとある。その翌年(656年)には新たに岡本宮を建て
 て遷宮しているので、一時的な仮住まいの宮殿だったと考えられる。
 斉明天皇の没後、川原宮は川原寺(かわらでら)へ改められ、平安時代に
 嵯峨天皇空海へ同寺を与えたという。現在は真言宗で仏陀山弘福寺と
 称している。 
  
 <鑑賞>
  この歌の注釈を辿ると、かなりの量になりそうである。大化の改新と言う
  一大政変の後であること。孝徳天皇の崩御後、皇極天皇が再び重祚
  して、斉明天皇となること。この年の末に、板蓋宮が火災に遭い焼失し、
  一時的に川原宮へ遷ったこと。その時にお詠みになった歌ということです。
 
 うぢのみやこ( 兎道乃宮子)というところが、問題になります。これはた
 ぶん応神天皇崩御後、仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したと云わ
 れる菟道稚郎子(うじのわいらつこ)の菟道宮の伝承を偲んで詠んだ歌
 だと思れます。                                            

額田王


[題詞]明日香川原宮御宇天皇代 [天豊財重日足姫天皇] / 額田王歌 [未詳]



[原文]金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百礒所念
[訓読]秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の宮処の仮廬し思ほゆ
[仮名],あきののの,みくさかりふき,やどれりし,うぢのみやこの,かりいほしおもほゆ

[左注]右檢山上憶良大夫類聚歌林曰 一書戊申年幸比良宮大御歌 但紀曰 五年春正月己卯朔辛巳天皇至自紀温湯 三月戊寅朔天皇幸吉野宮而肆宴焉 庚辰日天皇幸近江之平浦[校異]辰 [元][冷] 辰ム


<メモ>
万葉仮名覚書 金(秋) 美草(すすき、茅等)屋杼(宿) 兎道(宇治うぢ)
 借五百(かりいほ)

(注)明日香川原宮御宇天皇代斉明天皇
 天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)
  皇極天皇4年(645年)6月、中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を討つ。
  (大化の改新)極天皇は同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に皇位を譲る。
  孝徳天皇の崩御後、62歳のとき飛鳥板蓋宮で再び皇位に就いて、斉明天
  皇となる重祚 )。この年の末に板蓋宮は火災に遭い焼失した。斉明天
  は川原宮へ遷った。

 川原宮 日本書紀によると、655年の冬、板蓋宮が火災に遭ったため、斉明
 天皇は川原宮へ遷ったとある。その翌年(656年)には新たに岡本宮を建て
 て遷宮しているので、一時的な仮住まいの宮殿だったと考えられる。
 斉明天皇の没後、川原宮は川原寺(かわらでら)へ改められ、平安時代に
 嵯峨天皇が空海へ同寺を与えたという。現在は真言宗で仏陀山弘福寺と
 称している。 
  
 <鑑賞>
  この歌の注釈を辿ると、かなりの量になりそうである。大化の改新と言う
  一大政変の後であること。孝徳天皇の崩御後、皇極天皇が再び重祚
  して、斉明天皇となること。この年の末に、板蓋宮が火災に遭い焼失し、
  一時的に川原宮へ遷ったこと。その時にお詠みになった歌ということです。
 
 うぢのみやこ( 兎道乃宮子)というところが、問題になります。これは
 たぶん応神天皇崩御後、仁徳天皇に皇位を譲るために自殺した菟道
 稚郎子(うじのわいらつこ)の菟道宮の伝承を踏まえて詠んだ歌だと思
 れれます。                                            

2012年6月23日土曜日

武殻王(たけかひこのみこ)


右、日本書紀ヲ検(カムガフル)ニ、讃岐国ニ幸スコト無シ。亦軍王ハ詳
ツマビラカナラズ。但シ山上憶良大夫ガ類聚歌林ニ曰ク、紀ニ曰ク、
天皇十一年己亥冬十二月己巳朔壬午、伊豫ノ温湯ノ宮ニ幸セリト云ヘリ。
一書ニ云ク、是ノ時宮ノ前ニ二ノ樹木在リ。此ノ二ノ樹ニ斑鳩(イカルガ)
比米(シメ)二ノ鳥、大ニ集マレリ。時ニ勅(ミコトノリ)シテ多ク稲穂ヲ掛ケテ
之ヲ養ヒタマフ。乃チ作メル歌ト云ヘリ。若疑ケダシ此便ヨリ幸セルカ。


これはあくまで舒明天皇時代のものと解釈すれば、このような注記がある
のも尤もなことである。この注記は後から付けたものと考えられている。


これはおそらく時代を超えた伝承の歌だと思います。
讃岐国安益郡(あやのこほり)に幸(いでませる時の軍王(いくさのおほきみ)
と言うのは、時代も遡った第12代・景行天皇の皇子・日本武尊の御子で、
綾君の祖先である武殻王(たけかひこのみこ)のことを彷彿とさせる。
そうならば一層、遠つ神 吾大君という言葉が身に迫ってくる。


古事記や万葉集の面白さというのは、実証主義を超えて、時間や空間の制約をとび
越えて、継承された神話や伝説が生き生きと描かれていることだ。時代や空間を
造力が超えて、神々や伝説が創り上げられ、享受する側の想像力も豊かにする。


神話とは、時間や空間や事実すらも超えてしまう歴史的真実だ。真理がそこにある。


宇夫階(うぶしな)神社社伝によると、第12代・景行天皇の皇子・日本武尊の
御子で、 綾君の祖先である武殻王が阿野群(現 綾歌郡)に封ぜられて下向
され(国造となり)、部内の海岸を御巡視の折、にわかに暴風にあい御船が
危うくなられた時、王が宇夫志奈大神に祈念なさると、どこからともなく一羽
の烏が御船の前にあらわれた。水夫に命じて、烏の飛び行く方向に船をこが
せられた所、泊浦(今の本島)について無事危難を逃れることが出来きた。
そこで王は一層大神を仰がれ、小烏大神と称えられた。






  香川県綾歌郡宇多津町網の浦近辺


 

2012年6月22日金曜日

軍王(いくさのおほきみ) の歌


[題詞]幸讃岐國安益郡之時軍王見山作歌
       
讃岐国安益郡(あやのこほり)に幸(いでませる時、軍王(いくさのおほきみ)
の山を見てよみたまへる歌




霞立つ  長き春日の  暮れにける  わけも知らず むらきもの 心を痛み
ぬえこ鳥  うら嘆げ居れば  玉たすき  懸けのよろしく  遠つ神  我が
大君の  行幸の  山越しの の ひとり居る  吾が衣手に  朝夕に  
還らひぬれば  大夫と  思へる我(あ)れも 草枕  旅にしあれば 思ひ遣
たづきを知らに  網の浦の  海人娘子(おとめ)らが 焼く塩の 思ひぞ
焼くる 吾が下心




<メモ>
万葉仮名覚書  吾大王 還比奴礼婆 海處女 吾衣手  吾下情


<鑑賞>
 

この長い歌の言いたいことは、吾下情(我が下心)というところです。
海人娘子らが焼く塩の思ひぞ焼くる 我が下心なんです。人前では
表さないが、胸中では 思い焦がれている。心の中は燠火のように
真っ赤にもえていると歌っています。


 霞立つ 長き春日の 暮れにける 巧みな歌ですよね。霞たつ朝から
暮れにける夜まで、警護している。長い春の日がとっぷり暮れて、
あたりが暗くなると、自然と家の妻のことが気にかかってくる。
きっと新婚なんでしょう。

そういう心が痛い夜の帳に、「ぬえこ鳥」が  「うら泣け居れば」と
 持ってきた訳です。全く巧みな歌です。
「ぬえこ鳥」がどんな鳥か分からなくても、ここで「ぬえこ鳥」なるもの
が掴めますよね。枕詞がもっている言葉の比喩的で、創造的な力
を、「ぬえこ鳥」に感じます。

し歌
 山越しの風を時じみ寝る夜おちず家なる妹を懸けて偲ひつ

<メモ>
万葉仮名覚書  小竹櫃(偲ひつ)
 
さて、厄介なのは次の注記です。次項に譲る。


弓の霊験


 弓の霊験

安田元久著「源義家」には、次のような伝承を伝えている。

しかも神に近い業を示す義家は、伝説の世界では、さらに神の如き霊験をあらわす
存在となる。「古事談」には、「白川上皇が、かつて御寝(ぎょしん)になるとき、物の
怪(もののけ)に悩まされた。その時、しかるべき武具を枕元に置けばよいということ
になって、義家朝臣をめされたので、義家は黒塗の弓矢を一張(ひとはり)すすめた。
上皇がそれを枕元に立てられたところ、その後は「物の怪」に襲われなかった。

また、源平盛衰記には次のような説話がある。

去る寛治年中に、堀川天皇がご病気になり、医師の治療も、また祈祷も効果があら
われないので、公卿たちが詮議した結果、この御病気は普通のものではない、何か
の悪霊がたたりをしているのだということになった。そこで武士をもって内裏を警固さ
せることとなり、それを義家に命じた。勅を蒙った義家は、甲冑をつけ、弓箭を帯して
御所の南庭に立ちはだかり、御殿の上を睨んで、大きな声をはりあげ、「清和帝ニハ
四代ノ孫、多田満仲ガ三代ノ後胤、伊予守頼義入道カ嫡男前陸奥守源義家、大内
ヲ守護シ奉ル、イカナル悪霊・鬼神ナリトモ、イカデカ望ヲナスベキ、罷リ退ケ」と呼ば
わり、弓の弦を三度鳴らした。殿上も階下も、その声のおそろしさに、身の毛もよだつ
気持ちであったが、これによって天皇の御病気は忽ちに平癒されてしまった。

                                   安田元久著「源義家」


皇族から臣下に下った源氏は、天皇家の祭祀をそのまま受け継いだと思われる。
この黒塗りの弓矢なり、弓の弦を三度鳴らすのが古神道の一つに違いない。鎮魂
の儀なのであろう。古神道は天皇家と在野の修験道では異なっていたようだ。

宇智の野に(遊猟)みかりしたまへる時の歌


  [題詞]天皇遊猟内野之時中皇命使間人連老獻歌

天皇の宇智の野に(遊猟)みかりしたまへる時、なかちひめみこ
(中皇命)のはしひとのむらじおゆ(間人連老)をして献らせたまふ歌



やすみしし 我が大君の 朝には 取り撫でたまひ

夕へには い寄り立たしし み執らしの 梓の弓の

中弭の 音すなり 朝猟に 今立たすらし 夕猟に

今立たすらし み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり

やすみしし わがおほきみの あしたには とりなでたまひ
ゆふへには いよりたたしし みとらしの,あづさのゆみの,
なかはずの おとすなり あさがりに いまたたすらし
ゆふがりに いまたたすらし みとらしの あづさのゆみの
なかはずのおとすなり 

<メモ>
万葉仮名覚書 八隅知 伊縁立之 御執 良思

鳴弦の儀(めいげんのぎ)  弦を引き音を鳴らす事により、 魔気・邪気
病気を祓う。                                                     
梓巫女(あずさみこ) 梓弓を鳴らしながら神降ろしの呪文を唱える。                       

鑑賞  好きですね。この歌。みかり(遊猟)は、古神道の行事のようなも
のでしょう。 中皇命には諸説あります。天皇、皇后、姫君、何れにしろ女
性です。おそらく、巫女的な役割を果たしているのでしょう。折口信夫によ
れば、中というのは、中間の意味で、天子と神との間にいる、尊い方だと
いう。

祝詞集の鎮魂歌にこう言うのがあります。

猟夫さつを等らが もた(持)来きのま弓 おくやまに(御狩)みかりすらし
も 弓の(筈)はず見ゆ 


この祝詞も巫女が神がかりして宣るのでしょう。 さつをに対し、みかりと
敬称を使っていますからね。大伴家持の歌には猟としか使われていない。
この歌は薬狩りの歌と言われています。

かきつばた衣に摺り付け丈夫のきそひ猟する月は来にけり


弓の霊験は、八幡太郎義家の伝説にもあります。              
                                                                            

国見


[題詞]高市岡本宮御宇天皇代 [息長足日廣額天皇] / 天皇登香具山望國之時御製歌
高市の崗本の宮に天の下しろしめしし天皇の代
 天皇の香具山に登りましてくにみしたまへる時に
みよみませるおほみうた(御製歌)

大和には  むらやま(群山) あれど とりよろふ 
あめ(天)の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 
けぶり立ち立つ  海原は かまめ (鴎)立ち立つ うまし国ぞ

あきつしま(蜻蛉島) 大和の国は




メモ
万葉仮名覚書  山常 (やまと)  煙立龍   加萬目立多都
 怜 (うまし)  蜻嶋(あきづしま) 八間跡能國


鑑賞


奈良の香具山の国見となっているが怪しい。奈良の香具山
から鴎は見えないでしょう。それに、鴎は冬に現れますから、
煙を霞と訳すのも無理がある。それで古田武彦さんはこの歌
の香具山は奈良ではなくて、別府の鶴見山ではないかと仮説
をたてている。そうすると、このけむりは冬の温泉から立ち上
る水蒸気と言う意味にとれる。

奈良時代は、空想や創造溢れる詩情ゆたかな時代だったの
でしょう。天の香具山が天から降ってきた山であると言う伝承
があったりするくらいだから。

おそらく伝承として語り継がれた歌が時間や空間を超えて、こ
の時代の歌として、納まったように思われる。


鑑賞


鑑賞

籠(こ)もよ み籠(こ)持ち  掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち
 
と云って、「み籠持ち」と美称の接頭辞をつけて言い換えているとこ
が心憎いところである。



言葉を二回づつ繰り返しているところが、詩的である。また、「籠よ」
複数の女が籠を持っているが、その中でも、ひときわ美しくきれいな

籠を持っている、あの児はどこの由緒ある出自で、名をなんと申す
か訊いているのであろう。


「掘串もよ み掘  串持ち」というのも同じ意味であろう。
「菜摘(なつ)ます」とあるから、土を掘って山菜をとる簡単なものであ
ろう。焼き鳥の竹くしを大きくしたものだろうか?

2012年6月21日木曜日

雄略天皇



[題詞] 泊瀬朝倉宮御宇天皇代 [<大>泊瀬稚武天皇] / 天皇御製歌


<訓読>
はつせ(泊瀬)の朝倉の宮にあめ(天)の下しろしめししすめら
みこと(天皇)の代


籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち

この丘に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 名告(なの)らさね

そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(お)れ

しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも

名をも

こもよ みこもち ふくしもよ みぶくしもち このをかに 
なつますこ いへきかな のらさね そらみつ やまとのくには
おしなべて われこそをれ しきなべて われこそませ われ
こそは のらめ いへをもなをも

<メモ>
万葉仮名覚書  美篭 兒 虚見津 山跡乃國  (ませ)

雄略天皇 大泊瀬幼武命(おおはつせわかたけのみこと)
安康三年(西暦463~464年頃?)十一月泊瀬朝倉宮に即位。大伴・
物部を中心とした伴造系氏族の武力を背景とし、「葛城系」の勢力
を排除しての即位。

雄略九年、朝貢を欠く新羅を征伐するため、大伴談・紀小弓・蘇我
韓子らを大将とし、新羅に派遣する。雄略二十一年(477)、百済に
任那の一部を割譲し、百済はこの地を新都として再興する。

478年、倭王武(雄略天皇説有力)、宋に上表文を送る。「王の先
祖が自ら甲冑を纏い山川跋渉し戦を続け、東は毛人五十五カ国を
征し、西は衆夷六十六カ国を服し、海北へ渡り九十五カ国を平らげ
る」旨ある。順帝、武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕
韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に叙す。

訓読万葉集 ―鹿持雅澄『萬葉集古義』による
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/manyok/