[題詞]明日香川原宮御宇天皇代 [天豊財重日足姫天皇] / 額田王歌 [未詳]
秋の野の み草刈り葺き宿れりし 宇治の宮処の 仮廬し思ほゆ
[左注]右檢山上憶良大夫類聚歌林曰 一書戊申年幸比良宮大御歌
但紀曰 五年春正月己卯朔辛巳天皇至自紀温湯 三月戊寅朔天皇
幸吉野宮而肆宴焉 庚辰日天皇幸近江之平浦[校異]辰 [元][冷] 辰ム
<メモ>
万葉仮名覚書 金(秋) 美草(すすき、茅等)屋杼(宿) 兎道(宇治うぢ)
借五百(かりいほ)
(注)明日香川原宮御宇天皇代(斉明天皇)
天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)
皇極天皇4年(645年)6月、中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を討つ。
(大化の改新)皇極天皇は同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に皇位を譲る。
孝徳天皇の崩御後、62歳のとき飛鳥板蓋宮で再び皇位に就いて、斉明天
皇となる(重祚 )。この年の末に板蓋宮は火災に遭い焼失した。斉明天皇
は川原宮へ遷った。
川原宮 日本書紀によると、655年の冬、板蓋宮が火災に遭ったため、斉明
天皇は川原宮へ遷ったとある。その翌年(656年)には新たに岡本宮を建て
て遷宮しているので、一時的な仮住まいの宮殿だったと考えられる。
斉明天皇の没後、川原宮は川原寺(かわらでら)へ改められ、平安時代に
嵯峨天皇が空海へ同寺を与えたという。現在は真言宗で仏陀山弘福寺と
称している。
<鑑賞>
この歌の注釈を辿ると、かなりの量になりそうである。大化の改新と言う
一大政変の後であること。孝徳天皇の崩御後、皇極天皇が再び重祚
して、斉明天皇となること。この年の末に、板蓋宮が火災に遭い焼失し、
一時的に川原宮へ遷ったこと。その時にお詠みになった歌ということです。
うぢのみやこ( 兎道乃宮子)というところが、問題になります。これはた
ぶん応神天皇崩御後、仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したと云わ
れる菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の菟道宮の伝承を偲んで詠んだ歌
だと思われます。
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