2012年6月21日木曜日

雄略天皇



[題詞] 泊瀬朝倉宮御宇天皇代 [<大>泊瀬稚武天皇] / 天皇御製歌


<訓読>
はつせ(泊瀬)の朝倉の宮にあめ(天)の下しろしめししすめら
みこと(天皇)の代


籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ み掘串(ぶくし)持ち

この丘に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 名告(なの)らさね

そらみつ 大和(やまと)の国は おしなべて われこそ居(お)れ

しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告(の)らめ 家をも

名をも

こもよ みこもち ふくしもよ みぶくしもち このをかに 
なつますこ いへきかな のらさね そらみつ やまとのくには
おしなべて われこそをれ しきなべて われこそませ われ
こそは のらめ いへをもなをも

<メモ>
万葉仮名覚書  美篭 兒 虚見津 山跡乃國  (ませ)

雄略天皇 大泊瀬幼武命(おおはつせわかたけのみこと)
安康三年(西暦463~464年頃?)十一月泊瀬朝倉宮に即位。大伴・
物部を中心とした伴造系氏族の武力を背景とし、「葛城系」の勢力
を排除しての即位。

雄略九年、朝貢を欠く新羅を征伐するため、大伴談・紀小弓・蘇我
韓子らを大将とし、新羅に派遣する。雄略二十一年(477)、百済に
任那の一部を割譲し、百済はこの地を新都として再興する。

478年、倭王武(雄略天皇説有力)、宋に上表文を送る。「王の先
祖が自ら甲冑を纏い山川跋渉し戦を続け、東は毛人五十五カ国を
征し、西は衆夷六十六カ国を服し、海北へ渡り九十五カ国を平らげ
る」旨ある。順帝、武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕
韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王に叙す。

訓読万葉集 ―鹿持雅澄『萬葉集古義』による
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/manyok/

0 件のコメント:

コメントを投稿