2013年4月24日水曜日

日本のシャーマニズム 物語の発生と和歌

 
 宇佐八幡宮の託宣が、例え仕組まれたものであっても、家持の神
と天皇への殉死の誓いは崇高であり、信仰への契機として物語が
発生した意味は考え深い。現代でも、シャーマンの奇跡を我々は体
験することができるから、神仏の存在を疑うことはできない。源氏物
語という物語の華を創り上げたものは、シャーマンの信仰への意思
であり、和歌は祈りとして迫ってくる。そういう意味でも、東大寺の修
二会は代にも美しい物語の祭典である。


二月堂縁起

 実忠和尚二七ヶ日夜の行法の間、来臨影向の諸神一 万三千七百余座、
その名をしるして神名帳を定(さだめ)しに、若狭国(わかさのくに)に遠敷
(おにう)明神と云う神います。遠敷河を領して魚を取りて遅参 す。神、是を
なげきいたみて、其をこたりに、道場のほとりに香水を出して奉るべきよし
を、懇(ねんごろに)に和尚にしめし給ひしかば、黒白二の鵜(う)、 にはか
に岩の中より飛出(とびいで)て、かたはらの樹にゐる。その二の跡より、い
みじくたぐひなき甘泉わき出(いで)たり。石をたたみて閼伽井とす。














2013年4月23日火曜日

日本のシャーマニズム ニヒリズムと神

 
 華厳経から真言密教にジャンプしたのは、華厳経の陥るニヒリズムに
あったと思う。奈良時代の行者は教学中心の華厳宗の寺を出て、山岳
行に励み、最終的には衆生済度のために社会的事業に邁進する。
 
 これはニヒリズムの克服に他ならないだろう。空海の真言密教はその
大成であったと思う。悟れる仏が作った法の下に平等だという華厳の教
えは、政治家を魅了するものだが、一方「空観」はこの世の現象を幻と
見渡すから、「生者必滅」というニヒリズムに陥る。これを克服しようとし
たものが、一切衆生の救済という誓願だったと思う。
 平家物語のモチーフは正に華厳経のニヒリズムにあったのだろう。十
一面観音を信仰した平清盛の死と平氏の滅亡は、その象徴的な出来事
に映ったと思われる。源氏の台頭はそういうニヒリズムからの克服であり、
八幡神と密教の接点である八幡大菩薩信仰を背景に、闘う武装集団を生
んだのかもしれない。
 ニーチェがニヒリズを克服するために、超人ツァラトゥストラを考え出し、
自らが神となろうとしたことと同じだろう。三島由紀夫の「癩王のテラス
の観世音菩薩は普く世界を観わたす絶対的存在であり、そのニヒリズム
は「豊饒の海」の認識者であり法の支配者である判事本多に投影される。
三島はニヒリズムを克服するために、自ら剣をとって、神を創造した。

日本のシャーマニズム 宇佐八幡神の託宣


 聖武天皇が東大寺の大仏を建立するに当たって、宇佐の八幡神
 から「われ天神地祇を率い、必ず成し奉る。銅の湯を水となし、わ
 が身を草木に交えて障ることなくさん」と言う協力の託宣が出され
 た。大仏に塗る金が不足すると、宇佐神宮(宇佐八幡宮)の託宣
 があって我が国で産金するという。そこで天皇は金峰山に使いを
 遣わして黄金を産してほしいと祈ったところ、「我が山の金は慈尊
 出世時、即ち弥勒菩薩がこの世に出現された時に使うべきもので
 ある。しかし近江国志賀郡瀬田江付近に一人の老人が座っている
 石があるから、其の上に観音様をまつって祈れば黄金は自ずと手
 に入る」、とのお告げがあった。そこで其の場所を訪ねて(今の石
 山寺という)如意輪観音を安置し、沙門良弁法師が祈りを捧げた
 ところ、間もなく陸奥の国より黄金が献上された。そこでこの黄金
 の中から先ず120両を分かって宇佐神宮(宇佐八幡宮)に奉納し
 たと云う。(扶桑記)

 大伴家持は宇佐八幡神の託宣が実現して、神の存在を確信した
 に違いない。良弁の祈りの成果によって、聖武天皇の鎮護国家を
 守る決意をしたのだろう。大友家持の驚きは神の啓示のように迫
 っただろう。これが密教なのだ。八幡神は八幡大菩薩になり、仏教
 教学という哲学が祈りの宗教となったのである。


 陸奥国より金を出せる詔書を賀く   大友家持
葦原の 瑞穂の国を 天降り 領らしめける すめろきの 神の命の
御代かさね 天の日嗣と 領らしくる 君の御代御代 敷きまぜる
四方の国には 山河を 広み厚みと たてまつる みつき宝は
数へえず 尽くしもかねつ しかれども 我が大君の 諸人を
いざなひたまひ 善き事を 始めたまひて 黄金かも 確けくあらむと
思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東の国に 陸奥の 小田なる山に
黄金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ 天地の 
神相うずなひ すめろきの みたま助けて 遠き代に かかりしことを
朕が御世に あらはしてあれば 御食国は 栄えむものと 神ながら
思ほしめして もののふの やそ伴の雄を まつろへの
むけのまにまに 老人も 女童も しが願ふ 心だらひに 撫で賜ひ
治め賜へば ここをしも あやに尊み 嬉しけく いよよ思ひて 
大伴の 遠つ神祖の その名をば 大来目主と 負ひもちて
仕へし官 海行かば 水漬く屍 山行かば 草むす屍 大君の
辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立て ますらをの 
清きその名を いにしへよ 今のをつつに 流さへる 祖の子どもぞ
大伴と佐伯の氏は 人の祖の 立つることだて 人の子は 
祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひつげる 言のつかさぞ
梓弓 手にとりもちて 剣太刀 腰にとりはき 朝まもり 夕のまもりに
大君の 御門のまもり われをおきて 人はあらじと いや立て 
思ひしまさる 大君の御言の幸の 聞けば貴み

 反歌
大夫の こころ思ほゆ 大君の 御言のさきを 聞けば貴とみ
大夫の 遠つ神祖の 奥つ城は しるく標立て 人の知るべく
すめろきの 御代栄えむと 東なる陸奥山に くがね花咲く






2013年4月22日月曜日

日本のシャーマニズム 花山院


  源氏物語54帖は華厳経にある善財童子が53人の善知識に
って、最後普賢菩薩のところへ行って、悟りを開くという話から、
54帖になっているんだろうか。

泉鏡花は幽霊を描くことが、小説の中心だった。言葉が実体を
伴わなかったら、虚構であるから、幽霊という虚構を描くことが、
小説のモチーフになることは必然である。源氏物語では、葵の
上を襲った六条御息所の生霊の凄まじさが、魂が肉体に戻って
も、調伏護摩の香りが衣や髪にしみ込んで洗ってもとれないとい
凄惨な筆致で描かれている。虚構の世界で、その虚構を保証
するものはリアリズムである。言葉を保証するものは、実体を伴
った現実であり、リアリズムだ。

  真言密教の経典は神変加持という形而上学の世界だが、書か
れている話をレトリックとして考えたら少し蒙も啓かれるかもしれ
ない。形而上学の問題を言語で語る場合には、レトリックを使う
しかないのかもしれない。葵の上を襲った御息所の生霊のように
魂が肉体に戻って来たら衣服や髪に調伏護摩の香りがしみつい
て、洗ってもとれないという描写が、このレトリックにあたるような
ものだろうか。
 真言密教の経典には、独鈷杵という法具の大切さをうたってい
。両端が矢じりになってるようなもので、外部の魔軍を摧破し、
には己の煩悩を滅する働きがある、とても大切な法具だという
これを、源氏物語では、夕顔が生霊に襲われて絶命した後に、
氏がはやり病にかかって、山寺の聖に修法で治してもらうが
この時にこの聖がもののけも憑いているからといって、一晩籠
て修法をやる。暁に修法が終わって、独鈷杵を源氏に聖が
る。外部の魔軍は払ったけれど、なる煩悩は源氏自身が滅し
なければならないという暗示だろうか

 紫式部には、花山院の影響が大きく影を落としていたと思われ
る。19歳で退位して花山天皇は出家したが、親王時代に学
教え紫式部の父藤原官職を辞任することになり、約10
年に亘って散位の状況となった。
 書写山の性空を訪れた花山院は輪円具足という意味から円教
の称号を与えたと云う。その後、中宮彰子や紫式部、和泉式
部といった錚々たる貴人が播磨の円教寺の性空を訪れている。






2013年4月21日日曜日

日本のシャーマニズム 普賢大士

 
  験者の修法によって、御息所の生霊は調伏され、子どもが生
 まれる。

「すこし御声もしづまりたまへれば、隙おはするにやとて、宮の御湯持て
寄せたまへるに、かき起こされたまひて、ほどなく生まれたまひぬ。うれ
しと思すこと限りなきに、人に駆り移したまへる御もののけども、ねたが
りまどふけはひ、いともの騒がしうて、後の事、またいと心もとなし。」

  「人に駆り移したまへる御もののけども」とは他人に物の怪を
 一旦移しておくのだろう。不安は残るのだが、子どもが生まれた
 喜びで、実家の左大臣家は喜びが大きかった。
 
 
 一方、御息所は正体不明になって、気がつけば衣などに調伏
 護摩の香りが染みついていた。髪を洗ったり衣を替えても変わ
りばえがしない。御息所の苦悩は深まるばかりであった。 

「かの御息所は、かかる御ありさまを聞きたまひても、ただならず。「かね
ては、いと危ふく聞こえしを、たひらかにもはた」と、うち思しけり。
あやしう、我にもあらぬ御心地を思しつづくるに、御衣なども、ただ芥
子の香に染み返りたるあやしさに、御ゆする参り、御衣着替へなどしたま
ひて、試みたまへど、なほ同じやうにのみあれば、わが身ながらだに疎ま
しう思さるるに、まして、人の言ひ思はむことなど、人にのたまふべきこ
とならねば、心ひとつに思し嘆くに、いとど御心変はりもまさりゆく。」


  若君が生まれて喜びでわく中で、僧たちも退出した。秋の徐目で
 宮中へ参内して左大臣家が静まり返ると、葵の上が苦しんで急死
 してしまう。ちょっと油断した隙だった。

「秋の司召あるべき定めにて、大殿も参りたまへば、君達も労はり望みた
まふことどもありて、殿の御あたり離れたまはねば、皆ひき続き出でたま
ひぬ。
殿の内、人少なにしめやかなるほどに、にはかに例の御胸をせきあげて、
いといたう惑ひたまふ。内裏に御消息聞こえたまふほどもなく、絶え入り
たまひぬ。足を空にて、誰も誰も、まかでたまひぬれば、除目の夜なりけ
れど、かくわりなき御障りなれば、みな事破れたるやうなり。
ののしり騒ぐほど、夜中ばかりなれば、山の座主、何くれの僧都たちも、
え請じあへたまはず。今はさりとも、と思ひたゆみたりつるに、あさまし
ければ、殿の内の人、ものにぞあたる。所々の御とぶらひの使など、立ち
こみたれど、え聞こえつかず、ゆすりみちて、いみじき御心惑ひども、い
と恐ろしきまで見えたまふ。」

「常のことなれど、人一人か、あまたしも見たまはぬことなればにや、類
ひなく思し焦がれたり。八月二十余日の有明なれば、空もけしきもあはれ
少なからぬに、大臣の闇に暮れ惑ひたまへるさまを見たまふも、ことわり
にいみじければ、空のみ眺められたまひて、
「 のぼりぬる煙はそれとわかねどもなべて雲居のあはれなるかな 」

  もののけに襲われたのは、八月二十余日前ということなる。

「念誦したまへるさま、いとどなまめかしさまさりて、経忍びやかに誦みた
まひつつ、「法界三昧普賢大士」とうちのたまへる、行ひ馴れたる法師よ
りはけなり。

  ここでも、「法界三昧普賢大士」という経の文句が出てくる。
 
 

2013年4月20日土曜日

日本のシャーマニズム 加持祈祷


 御息所は葵の上を苦しめる夢をみる。

「年ごろ、よろづに思ひ残すことなく過ぐしつれど、かうしも砕けぬを、は
かなきことの折に、人の思ひ消ち、なきものにもてなすさまなりし御禊の
後、ひとふしに思し浮かれにし心、鎮まりがたう思さるるけにや、すこし
うちまどろみたまふ夢には、かの姫君とおぼしき人の、いときよらにてあ
る所に行きて、とかく引きまさぐり、うつつにも似ず、たけくいかきひた
ぶる心出で来て、うちかなぐるなど見えたまふこと、度かさなりにけり。」

 葵の上の方は、執念深い御もののけの一つに生死をさまよう苦し
みにあっている。


「まださるべきほどにもあらずと、皆人もたゆみたまへるに、にはかに御
けしきありて、悩みたまへば、いとどしき御祈り、数を尽くしてせさせたま
へれど、例の執念き御もののけ一つ、さらに動かず、やむごとなき験者
ども、めづらかなりともてなやむ。さすがに、いみじう調ぜられて、心苦
しげに泣きわびて、
「すこしゆるべたまへや。大将に聞こゆべきことあり」とのたまふ。
「さればよ。あるやうあらむ」
とて、近き御几帳のもとに入れたてまつりたり。むげに限りのさまにも
のしたまふを、聞こえ置かまほしきこともおはするにやとて、大臣も宮も
すこし退きたまへり。加持の僧ども、声しづめて法華経を誦みたる、いみ
じう尊し。御几帳の帷子引き上げて見たてまつりたまへば、いとをかしげ
にて、御腹はいみじう高うて臥したまへるさま、よそ人だに、見たてまつら
むに心乱れぬべし。」

 験者の修法によって、御もののけが調伏されて、「すこしゆるべたま
へや」と葵の上の口を借りて述べている。いよいよ、御息所の生霊が
その正体を現す。

「いで、あらずや。身の上のいと苦しきを、しばしやすめたまへと聞こえむ
とてなむ。かく参り来むともさらに思はぬを、もの思ふ人の魂は、げにあ
くがるるものになむありける」
と、なつかしげに言ひて、
「 嘆きわび空に乱るるわが魂を結びとどめよしたがへのつまとのたまふ
声、けはひ、その人にもあらず、変はりたまへり。「いとあやし」と思しめぐ
らすに、ただ、かの御息所なりけり。あさましう、人のとかく言ふを、よから
ぬ者どもの言ひ出づることも、聞きにくく思して、のたまひ消つを、目に見
す見す、「世には、かかることこそはありけれ」と、疎ましうなりぬ。「あな、
心憂」と思されて、「かくのたまへど、誰とこそ知らね。たしかにのたまへ」
とのたまへば、ただそれなる御ありさまに、あさましとは世の常なり。人々
近う参るも、かたはらいたう思さる。」

日本のシャーマニズム 葵の上



  葵の巻では、六条の御息所の生霊が身重の葵の上に憑依し
 苦しめることになる。

「御息所は、ものを思し乱るること、年ごろよりも多く添ひにけり。つらき
方に思ひ果てたまへど、今はとてふり離れ下りたまひなむは、「いと心
細かりぬべく、世の人聞きも人笑へにならむこと」と思す。さりとて立ち
止まるべく思しなるには、「かくこよなきさまに皆思ひくたすべかめるも、
やすからず、釣する海人の浮けなれや」と、起き臥し思しわづらふけに
や、御心地も浮きたるやうに思されて、悩ましうしたまふ」


「大殿には、御もののけめきて、いたうわづらひたまへば、誰も誰も思し
嘆くに、御歩きなど便なきころなれば、二条院にも時々ぞ渡りたまふ。
さはいへど、やむごとなき方は、ことに思ひきこえたまへる人の、めづ
らしきことさへ添ひたまへる御悩みなれば、心苦しう思し嘆きて、御修
法や何やなど、わが御方にて、多く行はせたまふ。
もののけ、生すだまなどいふもの多く出で来て、さまざまの名のりする
なかに、人にさらに移らず、ただみづからの御身につと添ひたるさま
にて、ことにおどろおどろしうわづらはしきこゆることもなけれど、また、
片時離るる折もなきもの一つあり。いみじき験者どもにも従はず、執
念きけしき、おぼろけのものにあらずと見えたり。」

  「もののけ、生すだま(生霊)などいふもの多く出て来て」とありま
 す。 人間どこで怨まれているか分かったものではありません。


「世の中あまねく惜しみきこゆるを聞きたまふにも、御息所はただならず
思さる。年ごろはいとかくしもあらざりし御いどみ心を、はかなかりし所
の車争ひに、人の御心の動きにけるを、かの殿には、さまでも思し寄ら
ざりけり。」
 
  御息所の煩悶もつづき、御息所は御息所で御祈祷なども頼んで
 いる。源氏は御息所をお見舞いし、心を慰めようとしたが、御息所
 の心は「なほふり離れなむこと」と、源氏への愛の執着をかえって
 増すのであった。


「かかる御もの思ひの乱れに、御心地、なほ例ならずのみ思さるれば、ほ
かに渡りたまひて、御修法などせさせたまふ。大将殿聞きたまひて、いか
なる御心地にかと、いとほしう、思し起して渡りたまへり。
例ならぬ旅所なれば、いたう忍びたまふ。心よりほかなるおこたりなど、
罪ゆるされぬべく聞こえつづけたまひて、悩みたまふ人の御ありさまも、
憂へきこえたまふ。
「みづからはさしも思ひ入れはべらねど、親たちのいとことことしう思ひま
どはるるが心苦しさに、かかるほどを見過ぐさむとてなむ。よろづを思し
のどめたる御心ならば、いとうれしうなむ」
など、語らひきこえたまふ。常よりも心苦しげなる御けしきを、ことわ
りに、あはれに見たてまつりたまふ。
うちとけぬ朝ぼらけに、出でたまふ御さまのをかしきにも、なほふり離
れなむことは思し返さる。」



2013年4月17日水曜日

日本のシャーマニズム 御もののけ




「九月二十日のほどにぞ、おこたり果てたまひて、いといたく面痩せたま
へれど、なかなか、いみじくなまめかしくて、ながめがちに、ねをのみ泣
きたまふ。見たてまつりとがむる人もありて、「御物の怪なめり」など言ふ
もあり。」
                                                                   源氏物語 夕顔

 源氏の病が終息したのは、9月20日の彼岸に入ってからであった。

「かの人の四十九日、忍びて比叡の法華堂にて、事そがず、装束よりはじ
めて、さるべきものども、こまかに、誦経などせさせたまひぬ。経、仏の飾
りまでおろかならず、惟光が兄の阿闍梨、いと尊き人にて、二なうしけり。
御書の師にて、睦しく思す文章博士召して、願文作らせたまふ。その人
となくて、あはれと思ひし人のはかなきさまになりにたるを、阿弥陀仏に
譲りきこゆるよし」
                               源氏物語 夕顔  
  
 夕顔の四十九日を盛大に源氏は供養する。八月十五日の夕顔
との逢瀬から、急転直下の夕顔の絶命と法要まで、日付を浮かび
上がらせた意味はなにか。紫式部が執拗に物の怪と憑依現象を
描くのは、彼女自身のシャーマン的な素質を表わしたものだろう。
中臣氏を祖先にもつ藤原氏は元々は天皇家の祭祀を司る家柄だ。
中宮に仕えていた式部は、当然祭りや法要等に詳しかったであろ
う。当時の支配者の考えや慣習がよくわかる一節である。


「君は、「夢をだに見ばや」と、思しわたるに、この法事したまひて、また
の夜、ほのかに、かのありし院ながら、添ひたりし女のさまも同じやうにて
見えければ、「荒れたりし所に住みけむ物の、我に見入れけむたよりに、
かくなりぬること」と、思し出づるにもゆゆしくなむ。」

2013年4月16日火曜日

日本のシャーマニズム 夕顔


「人目を思して、隔ておきたまふ夜な夜ななどは、いと忍びがたく、苦しきま
でおぼえたまへば、「なほ誰れとなくて二条院に迎へてむ。もし聞こえあり
て便なかるべきことなりとも、さるべきにこそは。我が心ながら、いとかく人
にしむことはなきを、いかなる契りにかはありけむ」など思ほしよる。
「いざ、いと心安き所にて、のどかに聞こえむ」
                                源氏物語 「夕顔」  
 
 源氏はすっかり夕顔に心を奪われて、二条院で一緒に暮らしたい
と思い詰めていた。

八月十五夜、隈なき月影、隙多かる板屋、残りなく漏りて来て、見慣ら
ひたまはぬ住まひのさまも珍しきに、暁近くなりにけるなるべし、隣の家々、
あやしき賤の男の声々、目覚まして、
「あはれ、いと寒しや」
「今年こそ、なりはひにも頼むところすくなく、田舎の通ひも思ひかけねば、
いと心細けれ。北殿こそ、聞きたまふや」
など、言ひ交はすも聞こゆ。
いとあはれなるおのがじしの営みに起き出でて、そそめき騒ぐもほどな
きを、女いと恥づかしく思ひたり。 
                               源氏物語 「夕顔」

  八月十五日夜、満月である。源氏は夕顔との逢瀬を果たす。女の住ま
 いは狭苦しく、隣近所の物音もうるさく憚れるので、近くの院に移るため
 に、車を引き入れる。

「いざ、ただこのわたり近き所に、心安くて明かさむ。かくてのみはいと苦
しかりけり」とのたまへば、
「いかでか。にはかならむ」
と、いとおいらかに言ひてゐたり。この世のみならぬ契りなどまで頼め
たまふに、うちとくる心ばへなど、あやしくやう変はりて、世馴れたる人
ともおぼえねば、人の思はむ所もえ憚りたまはで、右近を召し出でて、随
身を召させたまひて、御車引き入れさせたまふ。

いさよふ月に、ゆくりなくあくがれむことを、女は思ひやすらひ、とかくのた
まふほど、にはかに雲隠れて、明け行く空いとをかし。はしたなきほどに
ならぬ先にと、例の急ぎ出でたまひて、軽らかにうち乗せたまへれば、右
近ぞ乗りぬる。
そのわたり近きなにがしの院におはしまし着きて、預り召し出づるほど、
荒れたる門の忍ぶ草茂りて見上げられたる、たとしへなく木暗し。霧も深
く、露けきに、簾をさへ上げたまへれば、御袖もいたく濡れにけり。
                                源氏物語 「夕顔」

  院に移ったのは、十五日の翌朝,十六日で、その夜は十六夜(いざよ
 い)の月。源氏と夕顔はもののけに襲われるのである。

紙燭持て参れり。右近も動くべきさまにもあらねば、近き御几帳を引き
寄せて、
「なほ持て参れ」
とのたまふ。例ならぬことにて、御前近くもえ参らぬ、つつましさに、長
押にもえ上らず。
「なほ持て来や、所に従ひてこそ」
とて、召し寄せて見たまへば、ただこの枕上に、夢に見えつる容貌した
る女、面影に見えて、ふと消え失せぬ。
「昔の物語などにこそ、かかることは聞け」と、いとめづらかにむくつけけ
れど、まづ、「この人いかになりぬるぞ」と思ほす心騒ぎに、身の上も知ら
れたまはず、添ひ臥して、「やや」と、おどろかしたまへど、ただ冷えに冷
え入りて、息は疾く絶え果てにけり。
                                源氏物語 「夕顔」        
 
  源氏が灯りをかざすと、「枕の上に、夢にみえつる容貌したる女」の
 面影が見えたかと思うと、忽ち消え失せた。夕顔はすでにこと切れて
 いた。

まことに、臥したまひぬるままに、いといたく苦しがりたまひて、二、三
日になりぬるに、むげに弱るやうにしたまふ。内裏にも、聞こしめし、嘆
くこと限りなし。御祈り、方々に隙なくののしる。祭、祓、修法など、言
ひ尽くすべくもあらず。世にたぐひなくゆゆしき御ありさまなれば、世に
長くおはしますまじきにやと、天の下の人の騷ぎなり。
                                源氏物語 「夕顔」
 
  夕顔の葬儀を済ました後、源氏が重体に陥る。もののけの障りだと
言われて、「祭り、祓、修法」などを行う。

大殿も経営したまひて、大臣、日々に渡りたまひつつ、
さまざまのことをせさせたまふ、しるしにや、二十余日、いと重くわづら
ひたまひつれど、ことなる名残のこらず、おこたるさまに見えたまふ。
穢らひ忌みたまひしも、一つに満ちぬる夜なれば、おぼつかながらせた
まふ御心、わりなくて、内裏の御宿直所に参りたまひなどす。

  二十余日して、ようやく物の怪がおさえられたようである。真言密教
 では、21と云う数字が基本的によくつかわれる。大願成就のために、
 21日間寺に参籠して、誦経したり加持祈祷したりする。真言を目安と
 して21回唱えることも一般的になされる。










2013年4月15日月曜日

日本のシャーマニズム 怨霊


「 宵過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに、御枕上に、いとをかしげなる
女ゐて、
「己がいとめでたしと見たてまつるをば、尋ね思ほさで、かく、ことなるこ
となき人を率ておはして、時めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」
とて、この御かたはらの人をかき起こさむとす、と見たまふ。
物に襲はるる心地して、おどろきたまへれば、火も消えにけり。うたて
思さるれば、太刀を引き抜きて、うち置きたまひて、右近を起こしたまふ。」
                                                                   源氏物語 夕顔

 「若紫」の卷で、「御もののけなど、加はれる」から、夜も加持祈祷が
必要だと聖が述べたが、その御もののけが前の卷で夕顔にとり憑い
た下りである。御もののけの正体は、六条御息所だと思われるが、嫉
妬のあまり生霊となって、源氏の夢に現れ、驚いて眼を覚ますと、隣で
寝ていた夕顔が正体を失っている。

「紙燭さして参れ。『随身も、弦打して、絶えず声づくれ』と仰せよ。人離
れたる所に、心とけて寝ぬるものか。惟光朝臣の来たりつらむは」と、問
はせたまへば、
「さぶらひつれど、仰せ言もなし。暁に御迎へに参るべきよし申してなむ、
まかではべりぬる」と聞こゆ。この、かう申す者は、滝口なりければ、弓
弦いとつきづきしくうち鳴らして、「火あやふし」と言ふ言ふ」
                                      夕顔

 弓弦を鳴らすのは、悪霊を追い払うためである。古神道の呪術のよう
である。鳴弦の儀(めいげんのぎ)または弦打の儀(つるうちのぎ)と呼ば
れ、弓に矢をつがえずに弦を引き音を鳴らす事により、魔気・邪気を祓う
事を目的とする。病気祓い、不吉な出来事が起こった際など幅広く行わ
れる。なかでも、源義家の弓の霊験はあらたかであった。


白川上皇が、御寝(ぎょしん)になるとき、物の怪(もののけ)に悩まされ
れ、武具を枕元に置けばよいということなって、義家朝臣をめされた
ので、義家は黒塗の弓矢を一張(ひとはり)すすめた。上皇がそれを枕
元に立てられたところ、その後は「物の怪」に襲われなかった。
                      「古事談」 安田元久著「源義家」                             
寛治年中に、堀川天皇がご病気になり、医師の治療も、また祈祷も効果
があらわれないので、公卿たちが詮議した結果、この御病気は普通のも
のではない、何かの悪霊がたたりをしているのだということになった。そこ
で武士をもって内裏を警固させることとなり、それを義家に命じた。勅を蒙
った義家は、甲冑をつけ、弓箭を帯して御所の南庭に立ちはだかり、御殿
の上を睨んで、大きな声をはりあげ、「清和帝ニハ四代ノ孫、多田満仲ガ
三代ノ後胤、伊予守頼義入道カ嫡男前陸奥守源義家、大内ヲ守護シ奉ル、
イカナル悪霊・鬼神ナリトモ、イカデカ望ヲナスベキ、罷リ退ケ」と呼ばわり、
弓も弦を三度鳴らした。殿上も階下も、その声のおそろしさに、身の毛もよ
だつ気持ちであったが、これによって天皇の御病気は忽ちに平癒されてし
まった。
                     「源平盛衰記」 安田元久著「源義家」         

 
やすみしし 我が大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕へには い寄り立たしし
み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり 朝猟に 今立たすらし 夕猟に 
今立たすらし み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり
 「万葉集 天皇の宇智の野に(遊猟)みかりしたまへる時、なかちひめ
みこ(中皇命)のはしひとのむらじおゆ(間人連老)をして献らせたまふ歌」

 梓巫女(あずさみこ)は梓弓を鳴らしながら神降ろしの呪文を唱えて、神
懸かりを行って生霊や死霊を呼び出して(口寄)、その霊に仮託して託宣や
呪術(神語り)を行ったと云う。
   





















2013年4月13日土曜日

日本のシャーマニズム シャーマン


   青旗の木幡の上を通ふとは目には見れども直に逢はぬかも

 天智天皇崩御のときに、皇后の倭姫王(やまとひめのおおきみ)の詠
れた晩歌である。天智の魂が空をかけるのが、倭姫王には見えるので
ある。この頃、天皇の皇后には、シャーマンが歴代多かった。天皇家出
身のものが皇后になったからかもしれない。この時代より遡ると、神功
皇后もシャーマンであったし、卑弥呼はその典型であったといえる。

 皇極天皇も、蘇我入鹿が大雲経等を読む行法で雨乞いに失敗したが、
後日、天皇自ら川原にひざまづいて天を仰ぎ祈ると、雷鳴とともに大雨
が数日ふり続けたと云う。
 
 卑弥呼は鬼道で人を惑わしていたと、魏志倭人伝は伝えている。同じ
天皇家でも男性より女性がシャーマンの中心であったのは、なにか特
別な教育方法でもあったのだろうか。男性皇族は荒ぶる神が降臨した
かのような武き戦をした。弓に霊威が宿る奇譚が多い。

 卑弥呼の鬼道も火を焚きあげると云うイメージから逃れられないが
実際、古代の祈りの場所には多くの燃焼跡が窺えるという。密教の
護摩焚きは、インドのバラモン教の行法だと云う。奈良時代の密教僧
が鎮護国家のために超人的な働きをしたのは、仏教経典を理解した
後、お寺を出て厳しい山林修行をした賜物なのである。










日本のシャーマニズム 大仏と黄金


 
 

 東大寺を開山した良弁上人は、聖武天皇に大仏を荘厳するために、
金峯山は黄金の山だから、金剛蔵王菩薩に祈り、金を求めるように
言われた。

 良弁が吉野の蔵王権現に参り祈念すると、夢中に、「この山の黄金
は弥勒菩薩下生の時、大地に敷こうとするものだから、それはできな
い。琵琶湖の南の勢多(現在の瀬田)という所に山があるから、そこで
持念したら、必ず黄金を得る」と告げた。

 瀬田に行くと、一人の老翁が釣りをしていた。この山の主比良明神だ
という。「この地は如意輪観音の霊応の地である。ここで祈念すれば、
願は早く成就するだろう。」と告げて、忽然と消えた。石の傍らに、草の
庵をつくり、観音の像を安置した。これが石山寺の起こりである。

 2年後、陸奥守敬福から、陸奥国で産出した黄金900両が貢上された。
聖武天皇は狂喜して、東大寺大仏殿の仏前に詔を捧げたと云う。これ
により、年号は天平から天平勝宝と改められた。

 
 先ず神のお告げによって、観音様をまつり、祈念するというのは密教
の効験譚によくある話で、観音霊験譚にふさわしい石山寺で紫式部が
源氏物語の着想を得たというのも、また尤もらしい話となっている。


 大仏に使用する黄金を得るために、当初は遣唐使を派遣して購入す
るつもりだったが、宇佐の八幡神から金は必ず国内より出るという託宣
が出され、聖武天皇は金峰山に使者を派遣したのである。(扶桑略記)
 それ以前に、天皇が莫大な費用を使って仏教寺院を建立すれば、貴
族から反対されるかも知れないと言う心配があった時に、宇佐八幡神
から「われ天神地祇を率い、必ず成し奉る。銅の湯を水となし、我が身
を草木に交えて障ることなくさん」という協力の託宣が出されていた。
 陸奥産出の黄金120両が宇佐八幡に奉納された。








































2013年4月12日金曜日

日本のシャーマニズム  十一面経


 十一面経は、陀羅尼で梵語の原文を漢字で音写したものである。呪文
として、山林修行の行者に伝わっていた。空海の真言密教以前の密教の
経典として、元興寺や大安寺を拠点として、竜樹が説いた三論宗、華厳、
法相などの、梵語と漢語に堪能な留学僧やその弟子達によって伝えられ
た。天台宗や真言宗を生む大きな影響を与えたと思われる。

 しかし、最も早く密教を習得していたのは役の行者であり、梵語陀羅尼
に通じていたようである。幼少の頃より梵字を書いたと、箕面山瀧安寺に
伝わる。また、真言宗の在家の勤行本の役行者和讃には、大日如来を
尊拝し密印真言を受けて神力自在であったと述べられ、箕面の滝で竜樹
菩薩から潅頂密法を受けたと伝えられています。

 那智山青岸渡寺には、仁徳天皇の頃(4世紀)に、インド天竺の僧裸形
上人が那智山大滝で修行して寺を開基したと伝承されている。インド僧
法道仙人は景行天皇の時に中国朝鮮を経て、播州清水寺を開いたと寺
の縁起に伝えられている。

 かなり以前からインドの僧が日本に来ていたらしいのである。尤も、大
古の昔、日本人の祖先が大陸から渡って来たことは明らかなのだから、
文明の進んだ国の人が来ても何ら不思議ではない。

 我々日本人がシャーマニズムを起源とする民族だという説があるくらい
で、大古の昔、中央アジア辺りから遊牧国家として渡って来たようなので
ある。バイカル湖の周辺に住むブリヤード人と日本人のDNAが一致し
ていることが分かっている。細石刃はバイカル湖周辺から拡散して来た
という考古学の視点もある。ブリヤード共和国の国歌には、桜が謳われて
いる。







 













日本のシャーマニズム 法華懺法



 源氏物語「若紫」に戻りますが、「法華三昧行う懺法の声」とあります。
法華懺法は、法華経を読誦して罪障を懺悔し、後生善所を願う法要で
天台宗の重要な儀式です。

 懺悔は仏教の修行の重要な一つになっており、自ら意識するしないに
かかわらず、自分が犯したであろう罪過を全身全霊をもって悔い改め、
仏の前にそのゆるしをえて、心身を清浄にします。懺悔はさとりであると
まで言われ、毎日の勤行に欠かせません。

 この「懺悔」を具現化したものに、東大寺のお水取りが考えられます。
この行事は、東大寺でも非常に重要な「不退転の行法」として伝えられ
ています。奈良時代に疫病を抑えた、修験僧と十一面観音信仰とは深
い関係があります。

 東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)は、天平勝宝4年(752)に、実忠
和尚(じゅちゅうかしょう)によって創始された。実忠和尚は東大寺を開
山した良弁僧正の高弟でした。

 
 修二会の正式名称は「十一面悔過(けか)」といいます。われわれが日
常に犯している様々な過ちを、二月堂の本尊である十一面観世音菩薩
の宝前で、懺悔することを表わしています。修二会が創始された奈良時
代には、天災や疫病や反乱は国家の病気と考えられ、鎮護国家、五穀
豊穣、万民快楽などを願う行事とされました。

 この法会は、現在では3月1日より2週間にわたって行われるが、元は
旧暦の2月1日から行われていた。
 3月12日深夜(13日の午前1時半頃)、若狭井(わかさい)という井戸から
観音様にお供えする「お香水(おこうずい)」を汲み上げる「お水取り」の
儀式が行われる。練行衆の道明かりとして、夜ごと大きな松明(たいまつ)
がともされる。

 深夜にやるのは、いかにも秘儀めいていて、効験がありそうに思われる。
家の宗派が曹洞宗で、晩の回向として大悲心陀羅尼経にはじまって、真言
や陀羅尼が続く。晩とあるのだから、やっぱり深夜なのかと思う。













 


日本のシャーマニズム キハダ


 キハダ(オウバク)は、ミカン科の落葉高木で、高さは10m~20mで
5月末から7月初旬にかけて黄色い花が見られる。樹皮はコルク質で、
内樹皮が鮮黄色である。この樹皮から、外皮のコルク質を取り除いて
内皮の黄色い部分を乾燥させたものが、生薬の黄檗である。

 健胃,整腸薬の他に、化粧品に配合すると抗菌作用や肌荒れ改善に
効果がある。再春館製薬所の化粧品に使われている。樹齢20年以上
のキハダは抗菌成分のベルべリンを多く含み、雨量の多い7月中旬から
お盆までに、樹皮をはぎとる。この時期は水分を多く含み、外皮のコルク
層をきれいに剥ぎとることが容易であると言う。

 強い抗菌作用をもつ黄檗は、チフス、コレラ、赤痢の病原菌に対して効
能がある。陀羅尼助や百草丸として古来より処方されているが、北海道
では「しころ」と呼ばれているらしい。

 民間療法として、胃腸薬の他に肝臓病に内服したり貧血、鎮痛剤に使
われたり、煎汁は結膜炎等に妙効があると言うが薬事法から効能を謳う
ことはできない。粉末を酢で練って骨折や念挫の湿布としても使われて
いたらしい。種子は薬用、殺虫剤として使われた。

 又、染色にも使われ、水溶性多糖類を含み染料助剤となり食物繊維に
よく染着する。防虫作用があり、写経用紙を染めて使った。正倉院にその
記録と遺品がある。木は家具や調度に利用された。

 陀羅尼助に含まれるゲンノショウコウ、ガジュツ末も、研究次第で多くの
効能が見いだされる健康食品であると思われる。

日本のシャーマニズム  陀羅尼助


 光源氏がわらは病に密教の聖僧の修法を受けたが、この時に処方
された薬は陀羅尼助丸ではなかっただろうか?陀羅尼助は胃腸の薬
で大峰山の開祖「役行者」がその製法を伝えたと云われ、古来より生
薬として愛用されて来た。

 私の子どもの頃には、家庭での常備薬として薬箱に必ず置いてあっ
た。陀羅尼という怪しい文字に畏怖すら感じ秘薬として奥深く隠されて
いた。

 陀羅尼助の起源は、奈良時代前に疫病が流行し多くの人が腹痛に
苦しんでいたのを救うために、役行者が山中の黄柏(オウバク)の木
の皮をはいで、煎じ薬として飲ませたのが始まりであると云う。

 大峰修行の山伏達が、山中の修行中の持薬として愛用し、やがて
旅人達の道中薬として一般に使われ、家庭での常備薬となったと云
う。

 陀羅尼助丸の主原料はオウバクのキハダの樹皮を煮詰めて水製
エキスとし、ゲンノショウコウ、ガジュツを加えて乾燥させたものである。
オウバク、ゲンノショウコウ、ガジュツはいずれも殺菌作用があり、か
なり強い薬だと思われる。



2013年4月11日木曜日

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日本のシャーマニズム 僧都





すなはち、僧都参りたまへり。法師なれど、いと心恥づかしく人柄もや
むごとなく、世に思はれたまへる人なれば、軽々しき御ありさまを、はし
たなう思す。かく籠もれるほどの御物語など聞こえたまひて、「同じ柴の庵
なれど、すこし涼しき水の流れも御覧ぜさせむ」と、せちに聞こえたまへ

 
 さて、この寺の身分の高い僧都(法師)が源氏のお見舞いに伺い、僧都
身づから、読経をたてまつる。


「阿弥陀仏ものしたまふ堂に、することはべるころになむ。初夜、いまだ勤
めはべらず。過ぐしてさぶらはむ」とて、上りたまひぬ。

君は、心地もいと悩ましきに、雨すこしうちそそき、山風ひややかに吹
きたるに、滝のよどみもまさりて、音高う聞こゆ。すこしねぶたげなる読経
の絶え絶えすごく聞こゆるなど、すずろなる人も、所からものあはれなり。
まして、思しめぐらすこと多くて、まどろませたまはず。初夜と言ひしか
ども、夜もいたう更けにけり。内にも、人の寝ぬけはひしるくて、いと忍
びたれど、数珠の脇息に引き鳴らさるる音ほの聞こえ、なつかしううちそ
よめく音なひ、あてはかなりと聞きたまひて、ほどもなく近ければ、外に
立てわたしたる屏風の中を、すこし引き開けて、扇を鳴らしたまへば、お
ぼえなき心地すべかめれど、聞き知らぬやうにやとて、ゐざり出づる人あ
なり

 源氏はこのような時にも、夕方、眼をつけた清らかな少女若紫に渡りを
つけているが、それはさておき、一晩かけて僧たちは読経を続けていた
ようである。

暁方になりにければ、法華三昧行ふ堂の懺法の声、山おろしにつきて聞
こえくる、いと尊く、滝の音に響きあひたり。

 法華三昧行う懺法の声という具体的な呪法が出てくる。


明けゆく空は、いといたう霞みて、山の鳥どもそこはかとなうさへづり
あひたり。名も知らぬ木草の花どもも、いろいろに散りまじり、錦を敷け
ると見ゆるに、鹿のたたずみ歩くも、めづらしく見たまふに、悩ましさも
紛れ果てぬ。
聖、動きもえせねど、とかうして護身参らせたまふ。かれたる声の、い
といたうすきひがめるも、あはれに功づきて、陀羅尼誦みたり。
 
 ここでは、聖は護身法と陀羅尼を誦んだとある。

聖、御まもりに、独鈷たてまつる。見たまひて、僧都、聖徳太子の百済
より得たまへりける金剛子の数珠の、玉の装束したる、やがてその国
より入れたる筥の、唐めいたるを、透きたる袋に入れて、五葉の枝に
付けて、紺瑠璃の壺どもに、御薬ども入れて、藤、桜などに付けて、所
につけたる御贈物ども、ささげたてまつりたまふ。
君、聖よりはじめ、読経しつる法師の布施ども、まうけの物ども、さま
ざまに取りにつかはしたりければ、そのわたりの山がつまで、さるべき物
ども賜ひ、御誦経などして出でたまふ。

 独鈷という密教の法具のことや薬のことが明記されています。又、この
法具が聖徳太子が百済より得た金剛子の数珠の装束がしてあるとあり
ます。





















日本のシャーマニズム 瘧病



瘧病にわづらひたまひて、よろづにまじなひ加持など参らせたまへど、し
るしなくて、あまたたびおこりたまひければ、ある人、「北山になむ、なに
がし寺といふ所に、かしこき行ひ人はべる。去年の夏も世におこりて、人
びとまじなひわづらひしを、やがてとどむるたぐひ、あまたはべりき。し
しこらかしつる時はうたてはべるを、とくこそ試みさせたまはめ」など聞
こゆれば、召しに遣はしたるに、「老いかがまりて、室の外にもまかでず」
と申したれば、「いかがはせむ。いと忍びてものせむ」とのたまひて、御供
にむつましき四、五人ばかりして、まだ暁におはす。

                                源氏物語 若紫


 源氏物語の若紫の冒頭にわらは病に罹った光源氏がいろいろと加持
祈祷をしたが効験がみられず、霊験あらたかと評判の聖のところへ出か
けるくだりである。




寺のさまもいとあはれなり。峰高く、深き巖屋の中にぞ、聖入りゐたり
ける。登りたまひて、誰とも知らせたまはず、いといたうやつれたまへれ
ど、しるき御さまなれば、
「あな、かしこや。一日、召しはべりしにやおはしますらむ。今は、この世
のことを思ひたまへねば、験方の行ひも捨て忘れてはべるを、いかで、か
うおはしましつらむ」
と、おどろき騒ぎ、うち笑みつつ見たてまつる。いと尊き大徳なりけり。


さるべきもの作りて、すかせたてまつり、加持など参るほど、日高くさし
上がりぬ。


 「さるべきもの作りて、すかせたてまつる、加持など参る」とは、どのよう
な加持祈祷であったのか、定かではありません。



「暮れかかりぬれど、おこらせたまはずなりぬるにこそはあめれ。はや帰ら
せたまひなむ」
とあるを、大徳、
「御もののけなど、加はれるさまにおはしましけるを、今宵は、なほ静かに
加持など参りて、出でさせたまへ」と申す。
「さもあること」と、皆人申す。君も、かかる旅寝も慣らひたまはねば、さ
すがにをかしくて、
「さらば暁に」とのたまふ。

 聖は、「御もののけなど、加はれる」から、夜も加持祈祷が必要だと云う。
はやり病の他にもののけの障りがあると言っているのである。