2013年4月11日木曜日
日本のシャーマニズム 僧都
すなはち、僧都参りたまへり。法師なれど、いと心恥づかしく人柄もや
むごとなく、世に思はれたまへる人なれば、軽々しき御ありさまを、はし
たなう思す。かく籠もれるほどの御物語など聞こえたまひて、「同じ柴の庵
なれど、すこし涼しき水の流れも御覧ぜさせむ」と、せちに聞こえたまへ
さて、この寺の身分の高い僧都(法師)が源氏のお見舞いに伺い、僧都
身づから、読経をたてまつる。
「阿弥陀仏ものしたまふ堂に、することはべるころになむ。初夜、いまだ勤
めはべらず。過ぐしてさぶらはむ」とて、上りたまひぬ。
君は、心地もいと悩ましきに、雨すこしうちそそき、山風ひややかに吹
きたるに、滝のよどみもまさりて、音高う聞こゆ。すこしねぶたげなる読経
の絶え絶えすごく聞こゆるなど、すずろなる人も、所からものあはれなり。
まして、思しめぐらすこと多くて、まどろませたまはず。初夜と言ひしか
ども、夜もいたう更けにけり。内にも、人の寝ぬけはひしるくて、いと忍
びたれど、数珠の脇息に引き鳴らさるる音ほの聞こえ、なつかしううちそ
よめく音なひ、あてはかなりと聞きたまひて、ほどもなく近ければ、外に
立てわたしたる屏風の中を、すこし引き開けて、扇を鳴らしたまへば、お
ぼえなき心地すべかめれど、聞き知らぬやうにやとて、ゐざり出づる人あ
なり
源氏はこのような時にも、夕方、眼をつけた清らかな少女若紫に渡りを
つけているが、それはさておき、一晩かけて僧たちは読経を続けていた
ようである。
暁方になりにければ、法華三昧行ふ堂の懺法の声、山おろしにつきて聞
こえくる、いと尊く、滝の音に響きあひたり。
法華三昧行う懺法の声という具体的な呪法が出てくる。
明けゆく空は、いといたう霞みて、山の鳥どもそこはかとなうさへづり
あひたり。名も知らぬ木草の花どもも、いろいろに散りまじり、錦を敷け
ると見ゆるに、鹿のたたずみ歩くも、めづらしく見たまふに、悩ましさも
紛れ果てぬ。
聖、動きもえせねど、とかうして護身参らせたまふ。かれたる声の、い
といたうすきひがめるも、あはれに功づきて、陀羅尼誦みたり。
ここでは、聖は護身法と陀羅尼を誦んだとある。
聖、御まもりに、独鈷たてまつる。見たまひて、僧都、聖徳太子の百済
より得たまへりける金剛子の数珠の、玉の装束したる、やがてその国
より入れたる筥の、唐めいたるを、透きたる袋に入れて、五葉の枝に
付けて、紺瑠璃の壺どもに、御薬ども入れて、藤、桜などに付けて、所
につけたる御贈物ども、ささげたてまつりたまふ。
君、聖よりはじめ、読経しつる法師の布施ども、まうけの物ども、さま
ざまに取りにつかはしたりければ、そのわたりの山がつまで、さるべき物
ども賜ひ、御誦経などして出でたまふ。
独鈷という密教の法具のことや薬のことが明記されています。又、この
法具が聖徳太子が百済より得た金剛子の数珠の装束がしてあるとあり
ます。
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