2013年4月21日日曜日
日本のシャーマニズム 普賢大士
験者の修法によって、御息所の生霊は調伏され、子どもが生
まれる。
「すこし御声もしづまりたまへれば、隙おはするにやとて、宮の御湯持て
寄せたまへるに、かき起こされたまひて、ほどなく生まれたまひぬ。うれ
しと思すこと限りなきに、人に駆り移したまへる御もののけども、ねたが
りまどふけはひ、いともの騒がしうて、後の事、またいと心もとなし。」
「人に駆り移したまへる御もののけども」とは他人に物の怪を
一旦移しておくのだろう。不安は残るのだが、子どもが生まれた
喜びで、実家の左大臣家は喜びが大きかった。
一方、御息所は正体不明になって、気がつけば衣などに調伏
護摩の香りが染みついていた。髪を洗ったり衣を替えても変わ
りばえがしない。御息所の苦悩は深まるばかりであった。
「かの御息所は、かかる御ありさまを聞きたまひても、ただならず。「かね
ては、いと危ふく聞こえしを、たひらかにもはた」と、うち思しけり。
あやしう、我にもあらぬ御心地を思しつづくるに、御衣なども、ただ芥
子の香に染み返りたるあやしさに、御ゆする参り、御衣着替へなどしたま
ひて、試みたまへど、なほ同じやうにのみあれば、わが身ながらだに疎ま
しう思さるるに、まして、人の言ひ思はむことなど、人にのたまふべきこ
とならねば、心ひとつに思し嘆くに、いとど御心変はりもまさりゆく。」
若君が生まれて喜びでわく中で、僧たちも退出した。秋の徐目で
宮中へ参内して左大臣家が静まり返ると、葵の上が苦しんで急死
してしまう。ちょっと油断した隙だった。
「秋の司召あるべき定めにて、大殿も参りたまへば、君達も労はり望みた
まふことどもありて、殿の御あたり離れたまはねば、皆ひき続き出でたま
ひぬ。
殿の内、人少なにしめやかなるほどに、にはかに例の御胸をせきあげて、
いといたう惑ひたまふ。内裏に御消息聞こえたまふほどもなく、絶え入り
たまひぬ。足を空にて、誰も誰も、まかでたまひぬれば、除目の夜なりけ
れど、かくわりなき御障りなれば、みな事破れたるやうなり。
ののしり騒ぐほど、夜中ばかりなれば、山の座主、何くれの僧都たちも、
え請じあへたまはず。今はさりとも、と思ひたゆみたりつるに、あさまし
ければ、殿の内の人、ものにぞあたる。所々の御とぶらひの使など、立ち
こみたれど、え聞こえつかず、ゆすりみちて、いみじき御心惑ひども、い
と恐ろしきまで見えたまふ。」
「常のことなれど、人一人か、あまたしも見たまはぬことなればにや、類
ひなく思し焦がれたり。八月二十余日の有明なれば、空もけしきもあはれ
少なからぬに、大臣の闇に暮れ惑ひたまへるさまを見たまふも、ことわり
にいみじければ、空のみ眺められたまひて、
「 のぼりぬる煙はそれとわかねどもなべて雲居のあはれなるかな 」
もののけに襲われたのは、八月二十余日前ということなる。
「念誦したまへるさま、いとどなまめかしさまさりて、経忍びやかに誦みた
まひつつ、「法界三昧普賢大士」とうちのたまへる、行ひ馴れたる法師よ
りはけなり。
ここでも、「法界三昧普賢大士」という経の文句が出てくる。
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