2013年8月9日金曜日

源氏物語と仏教 薪の行道


法華八講 薪の行道(五卷の日)
 平安貴族の法要の中でもとりわけ華やかなのが、「五卷の日」の薪の
行道である。これは、本尊または堂塔の周囲を右回りに巡るものである。
 釈尊は千年の間、仙人に仕え、木の実を採り水を汲み、薪を拾い食事
の支度をし、時には仙人の腰掛けになって、法華経の教えを授かった。
 一般的な行道では、僧達が華籠を手にして、散華しながら巡るが、法華
八講では釈尊の苦行を偲んで、薪や水桶、菜籠などを背負った人々が加
わり、「法華経を我が得しことは薪こり菜摘み水汲み仕えてぞ得し」という
法華讃嘆を唱えながら回った。その後を捧物を捧げ持つ参会者が続いた。
 栄花物語、小右記、中右記などには、誰の捧物は何で誰が持って巡った
か、と詳細に書かれている。捧物には各参会者が競って趣向を凝らし、絢
爛豪華な品々が供えられた。
 「御堂関白記」によれば、藤原道長は寛弘元年五月一九日発願で東三
女院詮子追善八講で一条天皇、花山院、中宮彰子から捧物を賜っている。

 法華八講は、比叡山天台宗の顕教的な経典を中心としており、千年とい
うとうてい不可能な修行であり、真言密教の即身成仏という修行とは大きく
異なっている。源氏の恋の病という煩悩は一向に修まることはなく、后階級
との禁忌とトラブルは、源氏を須磨へ追いやることになる。









2013年8月8日木曜日

源氏物語と日本人の信仰


 「六十卷といふ書、読みたまひ、おぼつかなきところどころ解かせな
 どしておはしますを、「山寺にはいみじき光行なひ出だしたてつまれ
 り」と、「仏の御面目あり」と、あやしの法師ばらまでよろこびあへり。」
                                 源氏物語 榊                           
 「源氏は天台の経典六十卷を読んで、難解な所を僧たちに聞いたりな
 どして過ごしているのを、「山寺には輝くばかりの光が差すような行で
 ある」と、「仏には名誉なことである」と、身分の低い僧たちまでも喜こ
 びあっている。」

 「十二月十余日ばかり、中宮の御八講なり。いみじう尊し。日々に供養
 ぜさせたまふ御経よりはじめ、玉の軸、羅の表紙、帙簀の飾りも、世に
 なきさまにととのへさせたまへり。さらぬことのきよらだに、世の常なら
 ずおはしませば、ましてことわりなり。仏の御飾り、花机の簀おほひなど
 まで、まことの極楽思ひやらる。初めの日は、先帝の御料。次の日は、
 母后の御ため。またの日は、院の御料。五卷の日なれば、上達部など
 も、世のつつましさをえしも憚りたまはで、いとあまた参りたまへり。今日
 の講師は、心ことに選らせたまへれば、「薪こる」ほどよりうちはじめ、
 同じう言ふ言の葉も、いみじう尊し。親王たちも、さまざまの棒物ささげ
 めぐりたまふに、大将殿の御用意など、なほ似るものなし。常におなじ
 ことのやうなれど、みたてまつるたびごとに、めづらしからむをば、いか
 がはせむ。」 源氏物語 榊

 「十二月十日過ぎころ、中宮の御八講である。たいそう荘厳であった。
 日々の供養の御経をはじめ、玉の軸、羅の表紙、帙簀の装飾も、極上
 のものを用意された。日常の品の装飾にも、この上もなくきよらかで立
 派なものを整えていた位だったから、この日の荘厳さと言ったらない。
 仏像の飾りや花机の覆いなどまで、本当の極楽浄土が想起されるよう
 だった。初めの日は、中宮の父帝の御菩提のため、次の日は母后のた
 め、三日目は故院の御菩提のためで、法華経の第五卷の講義の日で
 あったから、上達部も現在の権勢に憚ることなく、多くの者が参上した。
 今日の講師は、特に厳選されているので、「法華経かいかにして得し薪
 こり菜摘み水汲み仕えてぞ得し」という歌が唱えられはじめると、同じ言
 葉でもたいそう尊く思われるのだった。仏前に親王方も様々の供物を捧
 げて行道なさるが、源氏の優美な装いなど、やはり他の人の追随を許す
 ものではない。いつものことだが、拝見するたびに素晴らしいのはどうし
 たことだろうか。」
 
故院の一周忌から法華八講が行われるが、これは平安時代初頭に死者
の追善供養を目的として営まれて以降、盛んに平安貴族の間に広まった。
具体的には、読師が経題を唱えて講師が経文を講釈し、さらに間者が教
義上の質問をして講師がそれに答え、精義が門答を判定、堂達が進行を
司る。天台宗の根本経典である法華経は、「護国も経典、成仏の直道」と
して、平安貴族に篤く信仰された。













2013年7月30日火曜日

源氏物語と日本人の信仰 加持祈祷


加持祈祷
密教とは簡単に言えば、薬のようなもので、病気になったら、薬を処方
するようなもので、これが加持祈祷にあたる。顕教は病気にならないよ
うに、日頃から因果応報を知り、生活の規律を守り、智恵を学ぶことだ。
病気になって説法したところで効果はない。回復してから説法すれば効
果は高いだろう。煩悩を断ち切る方法として加持祈祷を用いる。因果応
報を知ることも大切で、瞑想によって考えを深める。瞑想のやり方もマ
ニュアル化されている。

 「大将の君は、宮をいと恋しう思ひきこえたまへど、「あさましき御心の
 ほどを、時々は、思い知るさまにも見せたてまつらむ」と、念じつつ過ぐ
 したまふに、人悪ろく、つれづれに思さるれば、秋の野も見たまひがて
 ら、雲林院に詣でたまへり。」 源氏物語 榊

 「源氏は中宮をとても恋しく思いながらも、つれない御心の報いを思い
 知ればいいと、念じるように過ごしていたが、狂おしいくらいに中宮の
 ことが想い起こされ、気持を紛らすために、秋の野も眺めがてら、雲
 林院に参詣した。」

雲林院
 淳和天皇の離宮・紫野院が後に、花山に元慶寺を建立した僧正遍昭
に託され、官寺「雲林院」となる。雲林院の菩提講は、「今昔物語」、「大
鏡」にも登場し、古今和歌集や謡曲「雲林院」の題材にもなった。桜、紅
葉の名称としても知られる。
 雲林院境内には、「紫式部産湯の井戸」があり、紫式部はこの周辺で
生まれ育ったとされる。紫式部の墓所伝承地も雲林院近くにある。
 遍昭は、天台密教を完成させた円仁・円珍に師事した。六歌仙の一人。

 「故母御息所の御兄の律師の籠もりたまへる坊にて、法文など読み、
 行なひせむ」と思して、二、三日おはするに、あはれなること多かり。
 紅葉やうやう色づきわたりて、秋の野のいとなまめきたるなど見たま
 ひて、故里も忘れぬべく思さる。法師ばらの、才ある限り召し出でて、
 論議せさせて聞こしめさせたまふ。所からに、いとど世の中の常なさ
 を思し明かしても、なほ「憂き人しもぞ」と、思し出でらるるおし明け方
 の月影に法師ばらの閼伽たてまつるとて、からからと鳴らしつつ、菊
 の花、濃き薄き紅葉など、折り散らしたるも、はかなげなれど、「この
 かたのいとなみは、この世もつれづれならず、後の世はた、頼もしげ
 なり。さも、あぢきなき身をもて悩むかな」など、思し続けたまふ。」
                               源氏物語 榊

 「源氏の母君の桐壺の御息所の兄君の律師がいる寺へ行って、経
 を読んだり、勤行もしようと思って、二、三日こもっているうちに身に
 しむことが多かった。紅葉はいっそう色づきわたって、秋の野の妖艶
 な様を見て、家のこともすっかり忘れてしまいそうである。学僧だけを
 選んで討論をさせて聞いた。所がら、人生の無常さばかりをつくづく
 思ってみても、歌にあるように、なを「つれない人が恋しく忘れられな
 い」と、思い出される。明け方の月影のもとで、僧たちが閼伽を仏に
 供えるために、からからと音をさせながら、菊や濃淡の混ざった紅葉
 などを折り散らしているのも、ちょっとしたことではあるが、僧の営み
 は、この世で退屈することなく、後の世が期待できるものだ。自分は
 なんとも、厭わしい境遇をもてあまし煩悶していることであろう か。」 
                                与謝野晶子訳

山寺の営みやたたずまいに、源氏は心引かれながらも、中宮への思い
は消えない。「天の戸を押し明け方の月みれば憂き人しもぞ恋しかりけ
る」古今集の恋の歌を引き合いに、恋の煩悶という無明のあけることは
ない。







 







2013年7月29日月曜日

源氏物語と日本人の信仰心 罪の意識


中宮(藤壺)と源氏の恋

 「かやうのことにつけても、もて離れつれなき人の御心を、かつはめで
 たしと思ひきこえたまふものから、わが心の引くかたにては、なほつら
 う心憂し、とおぼえたまふ折多かり。」 源氏物語 榊

 「源氏は尚侍との関係をもちながらも、隙をまったくお見せにならない
 中宮(藤壺)をごりっぱであると認めながらも、恋する心には恨めしくも
 悲しくも思うことが多かった。」与謝野晶子訳

 「また、頼もしき人もものしたまはねば、ただこの大将の君をぞ、よろづ
 に頼みきこえたまへるに、なほ、この憎き御心のやまぬに、ともすれば
 御胸をつぶしたまひつつ、いささかもけしきを御覧じ知らずなりにしを思
 ふだに、いと恐ろしきに、今さらにまた、さる事の聞こえありて、わが身
 はさるものにて、東宮の御ためにかならずよからぬこと出で来なむ、と
 思すに、いと恐ろしければ、御祈りをさへせさせて、このこと思ひやませ
 たてまつらむと、思しいたらぬことなく逃れたまふを、いかなる折にかあ
 りけむ、あさましうて、近づき参りたまへり。心深くたばかりたまひけむこ
 とを、知る人なかりければ、夢のやうにぞありける。」 源氏物語 榊

 「また、東宮の後援者も他にいなかったので、ただこの源氏だけを万事
 にわたり頼りにしていたが、今でも源氏は藤壺を御当惑させるようなこと
 が止まなかった。源氏との不義密通に御胸を痛めつつ、少しもひとの気
 持ちを察しないと思うことさえ、とても恐ろしく、院が崩御した後、またその
 ような関係をもつことは、自分はともかくも、今さら、源氏との不義の子で
 ある東宮のために必ず大きな障害となることが起きるであろうと、御心配
 になって、ひそかに祈祷までもさせて、源氏の恋を仏力で止めようと、でき
 る限りのことを尽くして、源氏の情炎から身をかわしておいでになるが、あ
 る時思いがけなく源氏が御寝所に近づいた。慎重に計画されたことであっ
 たから知る人もなく、宮様にはまるで夢のようであった。」 与謝野晶子訳

藤壺は深い思慮と罪の意識の滅罪のために、修験者に祈祷を頼み、源氏
の情炎を思いとどまらせようとする。藤壺はこの罪の意識で悩み続けること
になる。桐壺帝の崩御後も、罪の意識は深まり、東宮の将来を心配するの
である。母性愛の方が、恋愛より優っていたということなのでしょうか。
 
















 



2013年7月28日日曜日

源氏物語と日本人の信仰心 五檀の御修法


 「わづらはしさのみまされど、尚侍の君は人知れぬ御心し通へば、
 わりなくてと、おぼつかなくはあらず。五檀の御修法の初めにて、
 慎みおはします隙をうかがひて、例の、夢のやうに聞こえたまふ。
 かの、昔おぼえたる細殿の局に、中納言の君、紛らはして入れ
 たてまつる。人目もしげきころなれば、常よりも端近なる、そら恐
 ろしうおぼゆ。
  朝夕に身たてまつる人だに、飽かぬ御さまなれば、まして、め
 づらしきほどにのみある御対面の、いかでかはおろかならむ。
 女の御さまも、げにぞめでたき御盛りなる。重りかなるかたは、
 いかがあらむ、をかしうなまめき若びたる心地して、見まほしき
 御けはひなり。」 源氏物語 榊

 「昔よりもいっそう恋の自由のない境遇にいても尚侍は絶えず
 恋をささやく源氏と文を交わしていたので、幸福観がないでも
 なかった。宮中で行わせられた五檀の御修法(みずほう)のた
 めに帝が御謹慎をしておいでになる頃、源氏は夢のように尚侍
 へ近づいた。昔の弘徽殿の細殿の小室へ中納言の君が導いた
 のである。御修法のために御所へ出入りする人の多い時に、こ
 うした密会が、自分の手で行われることを中納言の君は恐ろしく
 思った。朝夕に見て見飽かぬ源氏を稀に見た尚侍の喜びが想像
 される。女も今が青春の盛りの姿と見えた。貴女らしい端厳さなど
 は欠けていたかもしれぬが、美しくて、艶で、若々しくて男の心を
 十分に惹く力があった。」与謝野晶子訳

五檀の御修法とは、比叡山中興の祖・良源(912年~985年)が平
安貴族たちに広めた五大明王を本尊とする五檀法で、調伏の法
(怨霊などを討ち破る法)として用いられた。五大明王とは、不動
明王、降三世明王、軍荼利夜叉、大威徳明王、金剛夜叉である。

「紫式部日記」には、中宮彰子の安産を妨げようとする怨霊を調
伏する五檀法が克明に描かれている。

 「御帳のひむがしおもては、うちの女房まゐりつどひてさぶらふ。
 西には、御物のけうつりたる人々、御屏風一よろひを引きつぼ
 ね、つぼねぐちには几帳を立てつつ、験者あづかりあづかりの
 のしりゐたり。南には、やむごとなき僧正・僧都かさなりゐて、不
 動尊の生きたまへるかたちをも、呼びいであらはしつべう、たの
 みみ、うらみみ、声みなかれわたりにたる、いといみじう聞こゆ。」

 「中宮様の伏される御帳台の東面の間には内裏から一緒につい
 てきた女官たちが集まって控えている。西面の間には物の怪が
 乗り移ったよりましの人々を一人ずつ屏風で囲い、その出入り口
 に几帳を立てて、各修験者が一人一人を受け持って大声で祈祷
 をしている。南面の間には、貴い僧正や僧都が何重にも座ってい
 て、生ける不動明王のお姿を呼び出さんばかりに、頼みつ恨みつ、
 みな声も嗄れ果ててしまっているのがなんとも尊く聞こえる。」
                      宮坂宥勝著「不動信仰辞典」
 

















2013年7月12日金曜日

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2013年6月12日水曜日

野ざらし紀行 小夜の中山


  
           馬に寝て 残夢月遠し 茶の煙    小夜の中山

 20日余りの月がかすかに見えて、山の麓の暗い中を、馬に鞭を垂れ
て数里旅して来たが、いまだ鶏は鳴かない。杜牧が詠んだ「早行」の残
夢は小夜の中山まで来ると驚いて目が覚めた。西行の詠んだ小夜の中
山である。
 
 年たけて また越ゆべしと 思いきや 命なりけり 小夜の中山
 風になびく 富士の煙の 空に消えて 行方も知らぬ わが思ひかな

                                      西行

 小夜の中山には、芭蕉の「涼み松」があったと言われる処に、芭蕉の
句碑がある。
            命なりわづかの笠の下涼み
「野ざらし紀行」には載っていないが、小夜の中山で詠んだと云う。


小夜の中山と夜泣き石
































2013年6月7日金曜日

野ざらし紀行 大井川


     秋の日の 雨江戸に指折らん 大井川      千里

 大井川を越える日は、終日雨降りだったので、千里が一句詠んだ。
大井川は江戸の防衛と徳川家康の隠居城であった駿府城の外堀と
して、架橋はおろか渡し船も厳禁とされた。大井川を馬や人足を利
用して輿や肩車で渡河した川越(かわごし)が行われた。

    道のべの 木槿は馬に 食はれけり
     
 むくげの花は早朝に開花し夕方には凋んでしまう。「槿花(きんか)
一朝の夢」とは、果かない人の世の栄華の喩えである。白祇園守
(しろぎおんまもり)という品種は、御茶事の花、生け花として源氏
の武士の間で広く栽培されていた。現代でも、茶室に生けられる。





















広重「東海道五十三次」 興津宿



府中宿



2013年6月6日木曜日

野ざらし紀行 富士川


           猿を聞人捨子に 秋の風いかに

芭蕉は富士川のほとりで、3つばかりの捨子が哀れ気に泣いて
いるのに出くわす。親はこの富士川の早瀬のようなうき世の波を
凌ぐに堪えず、露のようなわずかな命でもとこの子を捨て置いた
のだろう。

 「小萩がもとの秋の風、今宵や散るらん、明日や萎れんと、袂
より食物投げて通るに、」
 

「猿を聞く人」とは、中国の故事中の子を失った母猿の断腸の叫
けびを漢詩文で謳った詩人達を指すと云う。秋風の吹く川原で泣
く捨子の哀れさに寂寥を覚えるばかりだ。この捨子は創作かもし
れない。芭蕉の心象風景か?


 「いかにぞや、汝父に悪まれたるか、母に疎まれたるか。父は
汝を悪むにあらじ、母は汝を疎むにあらじ。唯これ天にして、汝
が性の拙きを泣け!」


閑話休題

富士川といえば、平家物語の富士川の合戦で有名である。
「富士川大合戦図」






















2013年5月20日月曜日

日本文化の諸相   芭蕉

                       芭蕉「野ざらし紀行」
    
         野ざらしを    心に風の    しむ身哉
           秋十(と)とせ  却って江戸を  指さす故郷
 
 貞享元年秋、徳川第五代将軍綱吉の頃、芭蕉は隅田川深川の庵か
門人の千里(ちり)を伴い、故郷の伊賀上野に向かった。野ざらしとは、
野に晒したしゃれこうべのことである。芭蕉四十一才。五年後には奥の
細道への旅に出る。
 江戸も十年になるが、故郷に向かう旅が却って江戸を恋しく思う。葛飾
北斎と安藤広重の対照的な個性のように、芭蕉の句には対立する概念
が対照的に描かれている。ここでは、「野ざらし」と「こころ」であり、「江戸」
と故郷(伊賀上野)である。

            霧しぐれ    富士を見ぬ日ぞ  面白き  (箱根)

「関越ゆる日は雨降て、山皆雲に隠れたり。」箱根の関所を越える日は
雨降りで、いつも深川の草庵から眺めていた富士山は見えない。山深く
一面は霧に覆われている。心中に晴れた日の富士を思い描くのも一興
である。芭蕉は禅宗の影響を強く受けていると思われる。「野ざらし」は
禅定の白骨観から来ているのかも知れない。
               



            
北斎の富士





      

2013年5月17日金曜日

日本文化の諸相 俳句

       
     水取りや 氷の僧の 沓の音   (野ざらし紀行 芭蕉)


 「白隠(1685~1768)の「座禅和讃」を見ても、「衆生本来仏なり。
水と氷のごとくにて」と衆生本来仏だ、水と氷のようなものだと言って
いるが、これが華厳経だけでなく、大乗仏教の基本的な考え方である。」
                           鎌田茂雄「華厳の思想」
  
 鎌田氏は柳生但馬守宗矩の禅の師である沢庵宗彭(そうほう)の「不
動智神妙録」から引用して、次のように説明している。
 「これによると、本心というのは1ヵ所に固まらず、全身全体に広がる
心であるのに対して、1ヵ所に固まり、思いつめたる心が妄心であると
いう。これを喩えていえば本心は水、妄心は氷のようであり、本心は水
のように1ヵ所に止まることなく、妄心は氷のように水がこりかたまった
ものであるという。」

不動智神妙録  沢庵宗彭

本心盲心と申す事の候。本心と申すは一所に止まらず、身体全体に延
びひろごりたる心にて侯。妄心は何ぞ思いつめて一所に固り候心にて、
本心が一所に固り集りて妄心と申すものに成り申し候。本心は失ひ候
と所々の用が欠ける程に失はぬ様にするが専一なり、たとえば本心は
水の如く一所に留まらず、妄心は氷の如くにて、氷にては手も頭も洗は
れ不申候、氷を解かして水と為し、何処へも流れるやうにして手足をも
何をも洗うべし、心一所に固り一事溜り候へば、氷固まりて、自由に使
われ申さず、氷にて手足の洗はれぬ如くにて候、心を溶かして総身へ
水の延びるやうに用い、其所に遣りたきままに遣り使い候、是れを本心
と申し候。


白隠禅師座禅和讃を参考として掲げておく。

衆生本来仏なり 水は氷の如くに 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ たとえば水の中に居て
渇を叫ぶが如くなり 長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず
六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり 闇路に闇路を踏そえて
いつか生死を離るべき 

夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり 布施や持戒の諸波羅密
念仏懺悔修行等 そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり
一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ 悪趣何処にありぬべき
浄土即ち遠からず かたじけなくもこの法を 一たび耳にふるる時
讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし 況や自ら回向して
直に自性を証すれば 自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり

因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し 無相の相を相として
行くも帰るも余所ならず 無念の念を念として うたうも舞うも法の声
三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん この時 何をか求むべき
寂滅現前するゆえに 当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり









2013年5月16日木曜日

日本のシャーマニズム 




 鎌田茂雄氏著「華厳の思想」に興味深い一節がある。

「日本人に受容された華厳は、しだいに日本人の自然観のなかに定着
するに至った。名もなきもの、微小なるもののなかに無限なるものが宿
っているという「一即多」の思想は、日本人の生活感情にもぴったりす
るものがあった。野に咲く一輪のスミレの花のなかに大いなる自然の生
命を感得することができるのは、日本人の直感力による。華道や茶道の
理念にもこの精神は生きているのである。」                           
「華道も小さな枝のなかに全宇宙を見ようとするし、茶道も、四畳半の小
さな茶室に、山水をすべてそのなかに凝集させていく。また、庭をつくると、
小さいなかへ全宇宙を包含させようとする。」

鎌田氏は「それぞれのなかにすべてがあり、(一即多)、すべてのなかに
それぞれがある(多即一)」という思想が華厳経の中心だと云う。俳句な
んかもそういう世界観なのだろう。芭蕉が西国三十三所の岩間山正法寺
参籠してご本尊の霊験を得、蕉風俳諧を開眼したと云われており、本
横手には芭蕉が「古池や蛙とびこむ水のおと」を詠んだと云う芭蕉の
池がある。正法寺は泰澄大師が開いた寺で、真言宗醍醐派に属している。
石山寺と醍醐寺の間にある寺である。「夏草や 兵どもが 夢の跡」という
句なども、壮大なドラマと過去・現在・未来という歴史が凝縮され、無常感
漂うものがある。

日本のシャーマニズム  神々の顕現

ニヒリズムからの神々の誕生 

 律令制度による改革を進めていた奈良時代には、一方では、鎮護国家
と言う仏教による精神的統一を果たした。ここでは仏教は、病気平癒や疫
病の阻止という医療的な役割と戒律と同じような律令という法の順守を説
き社会のインフラ整備のための労役の奉仕という現実的な大きな社会的
役割をも担った。

 この中心になって活動したのが、修験道や雑密と呼ばれる密教の指導
者達であった。十一面観音というのは、密教の観音様である。懺悔による
精神の浄化は、火によって様々な罪を焚焼し、水によって清める。お水取
りという象徴的な行事を通して、我々は懺悔と徐霊と浄化によって再生を
果たすのである。懺悔とは菩提心の契機となる。

神々の創造
修験道では、役の行者や泰澄大使は権現という神々を創造した。雑密で
は土着神と仏教の仏達が力を協わせ、真言密教では曼荼羅の世界観に
統一される。奈良時代の密教は華厳経学派のお寺から生まれたものがほ
とんどだ。
 華厳経の法とは、「帝釈天の網」に喩えられる。帝釈天の網の結び目に
水晶の宝珠がついていて、そのひとつひとつが他の一切の宝珠を映し
出していると云う。普賢観とよばれ、一つの水晶の宝珠を見れば、すべて
の因果関係が見えるという喩えである。一つの珠にすべての事象が納め
られているという意味の法の理法を説いている。
 




2013年4月24日水曜日

日本のシャーマニズム 物語の発生と和歌

 
 宇佐八幡宮の託宣が、例え仕組まれたものであっても、家持の神
と天皇への殉死の誓いは崇高であり、信仰への契機として物語が
発生した意味は考え深い。現代でも、シャーマンの奇跡を我々は体
験することができるから、神仏の存在を疑うことはできない。源氏物
語という物語の華を創り上げたものは、シャーマンの信仰への意思
であり、和歌は祈りとして迫ってくる。そういう意味でも、東大寺の修
二会は代にも美しい物語の祭典である。


二月堂縁起

 実忠和尚二七ヶ日夜の行法の間、来臨影向の諸神一 万三千七百余座、
その名をしるして神名帳を定(さだめ)しに、若狭国(わかさのくに)に遠敷
(おにう)明神と云う神います。遠敷河を領して魚を取りて遅参 す。神、是を
なげきいたみて、其をこたりに、道場のほとりに香水を出して奉るべきよし
を、懇(ねんごろに)に和尚にしめし給ひしかば、黒白二の鵜(う)、 にはか
に岩の中より飛出(とびいで)て、かたはらの樹にゐる。その二の跡より、い
みじくたぐひなき甘泉わき出(いで)たり。石をたたみて閼伽井とす。














2013年4月23日火曜日

日本のシャーマニズム ニヒリズムと神

 
 華厳経から真言密教にジャンプしたのは、華厳経の陥るニヒリズムに
あったと思う。奈良時代の行者は教学中心の華厳宗の寺を出て、山岳
行に励み、最終的には衆生済度のために社会的事業に邁進する。
 
 これはニヒリズムの克服に他ならないだろう。空海の真言密教はその
大成であったと思う。悟れる仏が作った法の下に平等だという華厳の教
えは、政治家を魅了するものだが、一方「空観」はこの世の現象を幻と
見渡すから、「生者必滅」というニヒリズムに陥る。これを克服しようとし
たものが、一切衆生の救済という誓願だったと思う。
 平家物語のモチーフは正に華厳経のニヒリズムにあったのだろう。十
一面観音を信仰した平清盛の死と平氏の滅亡は、その象徴的な出来事
に映ったと思われる。源氏の台頭はそういうニヒリズムからの克服であり、
八幡神と密教の接点である八幡大菩薩信仰を背景に、闘う武装集団を生
んだのかもしれない。
 ニーチェがニヒリズを克服するために、超人ツァラトゥストラを考え出し、
自らが神となろうとしたことと同じだろう。三島由紀夫の「癩王のテラス
の観世音菩薩は普く世界を観わたす絶対的存在であり、そのニヒリズム
は「豊饒の海」の認識者であり法の支配者である判事本多に投影される。
三島はニヒリズムを克服するために、自ら剣をとって、神を創造した。

日本のシャーマニズム 宇佐八幡神の託宣


 聖武天皇が東大寺の大仏を建立するに当たって、宇佐の八幡神
 から「われ天神地祇を率い、必ず成し奉る。銅の湯を水となし、わ
 が身を草木に交えて障ることなくさん」と言う協力の託宣が出され
 た。大仏に塗る金が不足すると、宇佐神宮(宇佐八幡宮)の託宣
 があって我が国で産金するという。そこで天皇は金峰山に使いを
 遣わして黄金を産してほしいと祈ったところ、「我が山の金は慈尊
 出世時、即ち弥勒菩薩がこの世に出現された時に使うべきもので
 ある。しかし近江国志賀郡瀬田江付近に一人の老人が座っている
 石があるから、其の上に観音様をまつって祈れば黄金は自ずと手
 に入る」、とのお告げがあった。そこで其の場所を訪ねて(今の石
 山寺という)如意輪観音を安置し、沙門良弁法師が祈りを捧げた
 ところ、間もなく陸奥の国より黄金が献上された。そこでこの黄金
 の中から先ず120両を分かって宇佐神宮(宇佐八幡宮)に奉納し
 たと云う。(扶桑記)

 大伴家持は宇佐八幡神の託宣が実現して、神の存在を確信した
 に違いない。良弁の祈りの成果によって、聖武天皇の鎮護国家を
 守る決意をしたのだろう。大友家持の驚きは神の啓示のように迫
 っただろう。これが密教なのだ。八幡神は八幡大菩薩になり、仏教
 教学という哲学が祈りの宗教となったのである。


 陸奥国より金を出せる詔書を賀く   大友家持
葦原の 瑞穂の国を 天降り 領らしめける すめろきの 神の命の
御代かさね 天の日嗣と 領らしくる 君の御代御代 敷きまぜる
四方の国には 山河を 広み厚みと たてまつる みつき宝は
数へえず 尽くしもかねつ しかれども 我が大君の 諸人を
いざなひたまひ 善き事を 始めたまひて 黄金かも 確けくあらむと
思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東の国に 陸奥の 小田なる山に
黄金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ 天地の 
神相うずなひ すめろきの みたま助けて 遠き代に かかりしことを
朕が御世に あらはしてあれば 御食国は 栄えむものと 神ながら
思ほしめして もののふの やそ伴の雄を まつろへの
むけのまにまに 老人も 女童も しが願ふ 心だらひに 撫で賜ひ
治め賜へば ここをしも あやに尊み 嬉しけく いよよ思ひて 
大伴の 遠つ神祖の その名をば 大来目主と 負ひもちて
仕へし官 海行かば 水漬く屍 山行かば 草むす屍 大君の
辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立て ますらをの 
清きその名を いにしへよ 今のをつつに 流さへる 祖の子どもぞ
大伴と佐伯の氏は 人の祖の 立つることだて 人の子は 
祖の名絶たず 大君に まつろふものと 言ひつげる 言のつかさぞ
梓弓 手にとりもちて 剣太刀 腰にとりはき 朝まもり 夕のまもりに
大君の 御門のまもり われをおきて 人はあらじと いや立て 
思ひしまさる 大君の御言の幸の 聞けば貴み

 反歌
大夫の こころ思ほゆ 大君の 御言のさきを 聞けば貴とみ
大夫の 遠つ神祖の 奥つ城は しるく標立て 人の知るべく
すめろきの 御代栄えむと 東なる陸奥山に くがね花咲く






2013年4月22日月曜日

日本のシャーマニズム 花山院


  源氏物語54帖は華厳経にある善財童子が53人の善知識に
って、最後普賢菩薩のところへ行って、悟りを開くという話から、
54帖になっているんだろうか。

泉鏡花は幽霊を描くことが、小説の中心だった。言葉が実体を
伴わなかったら、虚構であるから、幽霊という虚構を描くことが、
小説のモチーフになることは必然である。源氏物語では、葵の
上を襲った六条御息所の生霊の凄まじさが、魂が肉体に戻って
も、調伏護摩の香りが衣や髪にしみ込んで洗ってもとれないとい
凄惨な筆致で描かれている。虚構の世界で、その虚構を保証
するものはリアリズムである。言葉を保証するものは、実体を伴
った現実であり、リアリズムだ。

  真言密教の経典は神変加持という形而上学の世界だが、書か
れている話をレトリックとして考えたら少し蒙も啓かれるかもしれ
ない。形而上学の問題を言語で語る場合には、レトリックを使う
しかないのかもしれない。葵の上を襲った御息所の生霊のように
魂が肉体に戻って来たら衣服や髪に調伏護摩の香りがしみつい
て、洗ってもとれないという描写が、このレトリックにあたるような
ものだろうか。
 真言密教の経典には、独鈷杵という法具の大切さをうたってい
。両端が矢じりになってるようなもので、外部の魔軍を摧破し、
には己の煩悩を滅する働きがある、とても大切な法具だという
これを、源氏物語では、夕顔が生霊に襲われて絶命した後に、
氏がはやり病にかかって、山寺の聖に修法で治してもらうが
この時にこの聖がもののけも憑いているからといって、一晩籠
て修法をやる。暁に修法が終わって、独鈷杵を源氏に聖が
る。外部の魔軍は払ったけれど、なる煩悩は源氏自身が滅し
なければならないという暗示だろうか

 紫式部には、花山院の影響が大きく影を落としていたと思われ
る。19歳で退位して花山天皇は出家したが、親王時代に学
教え紫式部の父藤原官職を辞任することになり、約10
年に亘って散位の状況となった。
 書写山の性空を訪れた花山院は輪円具足という意味から円教
の称号を与えたと云う。その後、中宮彰子や紫式部、和泉式
部といった錚々たる貴人が播磨の円教寺の性空を訪れている。






2013年4月21日日曜日

日本のシャーマニズム 普賢大士

 
  験者の修法によって、御息所の生霊は調伏され、子どもが生
 まれる。

「すこし御声もしづまりたまへれば、隙おはするにやとて、宮の御湯持て
寄せたまへるに、かき起こされたまひて、ほどなく生まれたまひぬ。うれ
しと思すこと限りなきに、人に駆り移したまへる御もののけども、ねたが
りまどふけはひ、いともの騒がしうて、後の事、またいと心もとなし。」

  「人に駆り移したまへる御もののけども」とは他人に物の怪を
 一旦移しておくのだろう。不安は残るのだが、子どもが生まれた
 喜びで、実家の左大臣家は喜びが大きかった。
 
 
 一方、御息所は正体不明になって、気がつけば衣などに調伏
 護摩の香りが染みついていた。髪を洗ったり衣を替えても変わ
りばえがしない。御息所の苦悩は深まるばかりであった。 

「かの御息所は、かかる御ありさまを聞きたまひても、ただならず。「かね
ては、いと危ふく聞こえしを、たひらかにもはた」と、うち思しけり。
あやしう、我にもあらぬ御心地を思しつづくるに、御衣なども、ただ芥
子の香に染み返りたるあやしさに、御ゆする参り、御衣着替へなどしたま
ひて、試みたまへど、なほ同じやうにのみあれば、わが身ながらだに疎ま
しう思さるるに、まして、人の言ひ思はむことなど、人にのたまふべきこ
とならねば、心ひとつに思し嘆くに、いとど御心変はりもまさりゆく。」


  若君が生まれて喜びでわく中で、僧たちも退出した。秋の徐目で
 宮中へ参内して左大臣家が静まり返ると、葵の上が苦しんで急死
 してしまう。ちょっと油断した隙だった。

「秋の司召あるべき定めにて、大殿も参りたまへば、君達も労はり望みた
まふことどもありて、殿の御あたり離れたまはねば、皆ひき続き出でたま
ひぬ。
殿の内、人少なにしめやかなるほどに、にはかに例の御胸をせきあげて、
いといたう惑ひたまふ。内裏に御消息聞こえたまふほどもなく、絶え入り
たまひぬ。足を空にて、誰も誰も、まかでたまひぬれば、除目の夜なりけ
れど、かくわりなき御障りなれば、みな事破れたるやうなり。
ののしり騒ぐほど、夜中ばかりなれば、山の座主、何くれの僧都たちも、
え請じあへたまはず。今はさりとも、と思ひたゆみたりつるに、あさまし
ければ、殿の内の人、ものにぞあたる。所々の御とぶらひの使など、立ち
こみたれど、え聞こえつかず、ゆすりみちて、いみじき御心惑ひども、い
と恐ろしきまで見えたまふ。」

「常のことなれど、人一人か、あまたしも見たまはぬことなればにや、類
ひなく思し焦がれたり。八月二十余日の有明なれば、空もけしきもあはれ
少なからぬに、大臣の闇に暮れ惑ひたまへるさまを見たまふも、ことわり
にいみじければ、空のみ眺められたまひて、
「 のぼりぬる煙はそれとわかねどもなべて雲居のあはれなるかな 」

  もののけに襲われたのは、八月二十余日前ということなる。

「念誦したまへるさま、いとどなまめかしさまさりて、経忍びやかに誦みた
まひつつ、「法界三昧普賢大士」とうちのたまへる、行ひ馴れたる法師よ
りはけなり。

  ここでも、「法界三昧普賢大士」という経の文句が出てくる。
 
 

2013年4月20日土曜日

日本のシャーマニズム 加持祈祷


 御息所は葵の上を苦しめる夢をみる。

「年ごろ、よろづに思ひ残すことなく過ぐしつれど、かうしも砕けぬを、は
かなきことの折に、人の思ひ消ち、なきものにもてなすさまなりし御禊の
後、ひとふしに思し浮かれにし心、鎮まりがたう思さるるけにや、すこし
うちまどろみたまふ夢には、かの姫君とおぼしき人の、いときよらにてあ
る所に行きて、とかく引きまさぐり、うつつにも似ず、たけくいかきひた
ぶる心出で来て、うちかなぐるなど見えたまふこと、度かさなりにけり。」

 葵の上の方は、執念深い御もののけの一つに生死をさまよう苦し
みにあっている。


「まださるべきほどにもあらずと、皆人もたゆみたまへるに、にはかに御
けしきありて、悩みたまへば、いとどしき御祈り、数を尽くしてせさせたま
へれど、例の執念き御もののけ一つ、さらに動かず、やむごとなき験者
ども、めづらかなりともてなやむ。さすがに、いみじう調ぜられて、心苦
しげに泣きわびて、
「すこしゆるべたまへや。大将に聞こゆべきことあり」とのたまふ。
「さればよ。あるやうあらむ」
とて、近き御几帳のもとに入れたてまつりたり。むげに限りのさまにも
のしたまふを、聞こえ置かまほしきこともおはするにやとて、大臣も宮も
すこし退きたまへり。加持の僧ども、声しづめて法華経を誦みたる、いみ
じう尊し。御几帳の帷子引き上げて見たてまつりたまへば、いとをかしげ
にて、御腹はいみじう高うて臥したまへるさま、よそ人だに、見たてまつら
むに心乱れぬべし。」

 験者の修法によって、御もののけが調伏されて、「すこしゆるべたま
へや」と葵の上の口を借りて述べている。いよいよ、御息所の生霊が
その正体を現す。

「いで、あらずや。身の上のいと苦しきを、しばしやすめたまへと聞こえむ
とてなむ。かく参り来むともさらに思はぬを、もの思ふ人の魂は、げにあ
くがるるものになむありける」
と、なつかしげに言ひて、
「 嘆きわび空に乱るるわが魂を結びとどめよしたがへのつまとのたまふ
声、けはひ、その人にもあらず、変はりたまへり。「いとあやし」と思しめぐ
らすに、ただ、かの御息所なりけり。あさましう、人のとかく言ふを、よから
ぬ者どもの言ひ出づることも、聞きにくく思して、のたまひ消つを、目に見
す見す、「世には、かかることこそはありけれ」と、疎ましうなりぬ。「あな、
心憂」と思されて、「かくのたまへど、誰とこそ知らね。たしかにのたまへ」
とのたまへば、ただそれなる御ありさまに、あさましとは世の常なり。人々
近う参るも、かたはらいたう思さる。」

日本のシャーマニズム 葵の上



  葵の巻では、六条の御息所の生霊が身重の葵の上に憑依し
 苦しめることになる。

「御息所は、ものを思し乱るること、年ごろよりも多く添ひにけり。つらき
方に思ひ果てたまへど、今はとてふり離れ下りたまひなむは、「いと心
細かりぬべく、世の人聞きも人笑へにならむこと」と思す。さりとて立ち
止まるべく思しなるには、「かくこよなきさまに皆思ひくたすべかめるも、
やすからず、釣する海人の浮けなれや」と、起き臥し思しわづらふけに
や、御心地も浮きたるやうに思されて、悩ましうしたまふ」


「大殿には、御もののけめきて、いたうわづらひたまへば、誰も誰も思し
嘆くに、御歩きなど便なきころなれば、二条院にも時々ぞ渡りたまふ。
さはいへど、やむごとなき方は、ことに思ひきこえたまへる人の、めづ
らしきことさへ添ひたまへる御悩みなれば、心苦しう思し嘆きて、御修
法や何やなど、わが御方にて、多く行はせたまふ。
もののけ、生すだまなどいふもの多く出で来て、さまざまの名のりする
なかに、人にさらに移らず、ただみづからの御身につと添ひたるさま
にて、ことにおどろおどろしうわづらはしきこゆることもなけれど、また、
片時離るる折もなきもの一つあり。いみじき験者どもにも従はず、執
念きけしき、おぼろけのものにあらずと見えたり。」

  「もののけ、生すだま(生霊)などいふもの多く出て来て」とありま
 す。 人間どこで怨まれているか分かったものではありません。


「世の中あまねく惜しみきこゆるを聞きたまふにも、御息所はただならず
思さる。年ごろはいとかくしもあらざりし御いどみ心を、はかなかりし所
の車争ひに、人の御心の動きにけるを、かの殿には、さまでも思し寄ら
ざりけり。」
 
  御息所の煩悶もつづき、御息所は御息所で御祈祷なども頼んで
 いる。源氏は御息所をお見舞いし、心を慰めようとしたが、御息所
 の心は「なほふり離れなむこと」と、源氏への愛の執着をかえって
 増すのであった。


「かかる御もの思ひの乱れに、御心地、なほ例ならずのみ思さるれば、ほ
かに渡りたまひて、御修法などせさせたまふ。大将殿聞きたまひて、いか
なる御心地にかと、いとほしう、思し起して渡りたまへり。
例ならぬ旅所なれば、いたう忍びたまふ。心よりほかなるおこたりなど、
罪ゆるされぬべく聞こえつづけたまひて、悩みたまふ人の御ありさまも、
憂へきこえたまふ。
「みづからはさしも思ひ入れはべらねど、親たちのいとことことしう思ひま
どはるるが心苦しさに、かかるほどを見過ぐさむとてなむ。よろづを思し
のどめたる御心ならば、いとうれしうなむ」
など、語らひきこえたまふ。常よりも心苦しげなる御けしきを、ことわ
りに、あはれに見たてまつりたまふ。
うちとけぬ朝ぼらけに、出でたまふ御さまのをかしきにも、なほふり離
れなむことは思し返さる。」



2013年4月17日水曜日

日本のシャーマニズム 御もののけ




「九月二十日のほどにぞ、おこたり果てたまひて、いといたく面痩せたま
へれど、なかなか、いみじくなまめかしくて、ながめがちに、ねをのみ泣
きたまふ。見たてまつりとがむる人もありて、「御物の怪なめり」など言ふ
もあり。」
                                                                   源氏物語 夕顔

 源氏の病が終息したのは、9月20日の彼岸に入ってからであった。

「かの人の四十九日、忍びて比叡の法華堂にて、事そがず、装束よりはじ
めて、さるべきものども、こまかに、誦経などせさせたまひぬ。経、仏の飾
りまでおろかならず、惟光が兄の阿闍梨、いと尊き人にて、二なうしけり。
御書の師にて、睦しく思す文章博士召して、願文作らせたまふ。その人
となくて、あはれと思ひし人のはかなきさまになりにたるを、阿弥陀仏に
譲りきこゆるよし」
                               源氏物語 夕顔  
  
 夕顔の四十九日を盛大に源氏は供養する。八月十五日の夕顔
との逢瀬から、急転直下の夕顔の絶命と法要まで、日付を浮かび
上がらせた意味はなにか。紫式部が執拗に物の怪と憑依現象を
描くのは、彼女自身のシャーマン的な素質を表わしたものだろう。
中臣氏を祖先にもつ藤原氏は元々は天皇家の祭祀を司る家柄だ。
中宮に仕えていた式部は、当然祭りや法要等に詳しかったであろ
う。当時の支配者の考えや慣習がよくわかる一節である。


「君は、「夢をだに見ばや」と、思しわたるに、この法事したまひて、また
の夜、ほのかに、かのありし院ながら、添ひたりし女のさまも同じやうにて
見えければ、「荒れたりし所に住みけむ物の、我に見入れけむたよりに、
かくなりぬること」と、思し出づるにもゆゆしくなむ。」

2013年4月16日火曜日

日本のシャーマニズム 夕顔


「人目を思して、隔ておきたまふ夜な夜ななどは、いと忍びがたく、苦しきま
でおぼえたまへば、「なほ誰れとなくて二条院に迎へてむ。もし聞こえあり
て便なかるべきことなりとも、さるべきにこそは。我が心ながら、いとかく人
にしむことはなきを、いかなる契りにかはありけむ」など思ほしよる。
「いざ、いと心安き所にて、のどかに聞こえむ」
                                源氏物語 「夕顔」  
 
 源氏はすっかり夕顔に心を奪われて、二条院で一緒に暮らしたい
と思い詰めていた。

八月十五夜、隈なき月影、隙多かる板屋、残りなく漏りて来て、見慣ら
ひたまはぬ住まひのさまも珍しきに、暁近くなりにけるなるべし、隣の家々、
あやしき賤の男の声々、目覚まして、
「あはれ、いと寒しや」
「今年こそ、なりはひにも頼むところすくなく、田舎の通ひも思ひかけねば、
いと心細けれ。北殿こそ、聞きたまふや」
など、言ひ交はすも聞こゆ。
いとあはれなるおのがじしの営みに起き出でて、そそめき騒ぐもほどな
きを、女いと恥づかしく思ひたり。 
                               源氏物語 「夕顔」

  八月十五日夜、満月である。源氏は夕顔との逢瀬を果たす。女の住ま
 いは狭苦しく、隣近所の物音もうるさく憚れるので、近くの院に移るため
 に、車を引き入れる。

「いざ、ただこのわたり近き所に、心安くて明かさむ。かくてのみはいと苦
しかりけり」とのたまへば、
「いかでか。にはかならむ」
と、いとおいらかに言ひてゐたり。この世のみならぬ契りなどまで頼め
たまふに、うちとくる心ばへなど、あやしくやう変はりて、世馴れたる人
ともおぼえねば、人の思はむ所もえ憚りたまはで、右近を召し出でて、随
身を召させたまひて、御車引き入れさせたまふ。

いさよふ月に、ゆくりなくあくがれむことを、女は思ひやすらひ、とかくのた
まふほど、にはかに雲隠れて、明け行く空いとをかし。はしたなきほどに
ならぬ先にと、例の急ぎ出でたまひて、軽らかにうち乗せたまへれば、右
近ぞ乗りぬる。
そのわたり近きなにがしの院におはしまし着きて、預り召し出づるほど、
荒れたる門の忍ぶ草茂りて見上げられたる、たとしへなく木暗し。霧も深
く、露けきに、簾をさへ上げたまへれば、御袖もいたく濡れにけり。
                                源氏物語 「夕顔」

  院に移ったのは、十五日の翌朝,十六日で、その夜は十六夜(いざよ
 い)の月。源氏と夕顔はもののけに襲われるのである。

紙燭持て参れり。右近も動くべきさまにもあらねば、近き御几帳を引き
寄せて、
「なほ持て参れ」
とのたまふ。例ならぬことにて、御前近くもえ参らぬ、つつましさに、長
押にもえ上らず。
「なほ持て来や、所に従ひてこそ」
とて、召し寄せて見たまへば、ただこの枕上に、夢に見えつる容貌した
る女、面影に見えて、ふと消え失せぬ。
「昔の物語などにこそ、かかることは聞け」と、いとめづらかにむくつけけ
れど、まづ、「この人いかになりぬるぞ」と思ほす心騒ぎに、身の上も知ら
れたまはず、添ひ臥して、「やや」と、おどろかしたまへど、ただ冷えに冷
え入りて、息は疾く絶え果てにけり。
                                源氏物語 「夕顔」        
 
  源氏が灯りをかざすと、「枕の上に、夢にみえつる容貌したる女」の
 面影が見えたかと思うと、忽ち消え失せた。夕顔はすでにこと切れて
 いた。

まことに、臥したまひぬるままに、いといたく苦しがりたまひて、二、三
日になりぬるに、むげに弱るやうにしたまふ。内裏にも、聞こしめし、嘆
くこと限りなし。御祈り、方々に隙なくののしる。祭、祓、修法など、言
ひ尽くすべくもあらず。世にたぐひなくゆゆしき御ありさまなれば、世に
長くおはしますまじきにやと、天の下の人の騷ぎなり。
                                源氏物語 「夕顔」
 
  夕顔の葬儀を済ました後、源氏が重体に陥る。もののけの障りだと
言われて、「祭り、祓、修法」などを行う。

大殿も経営したまひて、大臣、日々に渡りたまひつつ、
さまざまのことをせさせたまふ、しるしにや、二十余日、いと重くわづら
ひたまひつれど、ことなる名残のこらず、おこたるさまに見えたまふ。
穢らひ忌みたまひしも、一つに満ちぬる夜なれば、おぼつかながらせた
まふ御心、わりなくて、内裏の御宿直所に参りたまひなどす。

  二十余日して、ようやく物の怪がおさえられたようである。真言密教
 では、21と云う数字が基本的によくつかわれる。大願成就のために、
 21日間寺に参籠して、誦経したり加持祈祷したりする。真言を目安と
 して21回唱えることも一般的になされる。










2013年4月15日月曜日

日本のシャーマニズム 怨霊


「 宵過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに、御枕上に、いとをかしげなる
女ゐて、
「己がいとめでたしと見たてまつるをば、尋ね思ほさで、かく、ことなるこ
となき人を率ておはして、時めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」
とて、この御かたはらの人をかき起こさむとす、と見たまふ。
物に襲はるる心地して、おどろきたまへれば、火も消えにけり。うたて
思さるれば、太刀を引き抜きて、うち置きたまひて、右近を起こしたまふ。」
                                                                   源氏物語 夕顔

 「若紫」の卷で、「御もののけなど、加はれる」から、夜も加持祈祷が
必要だと聖が述べたが、その御もののけが前の卷で夕顔にとり憑い
た下りである。御もののけの正体は、六条御息所だと思われるが、嫉
妬のあまり生霊となって、源氏の夢に現れ、驚いて眼を覚ますと、隣で
寝ていた夕顔が正体を失っている。

「紙燭さして参れ。『随身も、弦打して、絶えず声づくれ』と仰せよ。人離
れたる所に、心とけて寝ぬるものか。惟光朝臣の来たりつらむは」と、問
はせたまへば、
「さぶらひつれど、仰せ言もなし。暁に御迎へに参るべきよし申してなむ、
まかではべりぬる」と聞こゆ。この、かう申す者は、滝口なりければ、弓
弦いとつきづきしくうち鳴らして、「火あやふし」と言ふ言ふ」
                                      夕顔

 弓弦を鳴らすのは、悪霊を追い払うためである。古神道の呪術のよう
である。鳴弦の儀(めいげんのぎ)または弦打の儀(つるうちのぎ)と呼ば
れ、弓に矢をつがえずに弦を引き音を鳴らす事により、魔気・邪気を祓う
事を目的とする。病気祓い、不吉な出来事が起こった際など幅広く行わ
れる。なかでも、源義家の弓の霊験はあらたかであった。


白川上皇が、御寝(ぎょしん)になるとき、物の怪(もののけ)に悩まされ
れ、武具を枕元に置けばよいということなって、義家朝臣をめされた
ので、義家は黒塗の弓矢を一張(ひとはり)すすめた。上皇がそれを枕
元に立てられたところ、その後は「物の怪」に襲われなかった。
                      「古事談」 安田元久著「源義家」                             
寛治年中に、堀川天皇がご病気になり、医師の治療も、また祈祷も効果
があらわれないので、公卿たちが詮議した結果、この御病気は普通のも
のではない、何かの悪霊がたたりをしているのだということになった。そこ
で武士をもって内裏を警固させることとなり、それを義家に命じた。勅を蒙
った義家は、甲冑をつけ、弓箭を帯して御所の南庭に立ちはだかり、御殿
の上を睨んで、大きな声をはりあげ、「清和帝ニハ四代ノ孫、多田満仲ガ
三代ノ後胤、伊予守頼義入道カ嫡男前陸奥守源義家、大内ヲ守護シ奉ル、
イカナル悪霊・鬼神ナリトモ、イカデカ望ヲナスベキ、罷リ退ケ」と呼ばわり、
弓も弦を三度鳴らした。殿上も階下も、その声のおそろしさに、身の毛もよ
だつ気持ちであったが、これによって天皇の御病気は忽ちに平癒されてし
まった。
                     「源平盛衰記」 安田元久著「源義家」         

 
やすみしし 我が大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕へには い寄り立たしし
み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり 朝猟に 今立たすらし 夕猟に 
今立たすらし み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり
 「万葉集 天皇の宇智の野に(遊猟)みかりしたまへる時、なかちひめ
みこ(中皇命)のはしひとのむらじおゆ(間人連老)をして献らせたまふ歌」

 梓巫女(あずさみこ)は梓弓を鳴らしながら神降ろしの呪文を唱えて、神
懸かりを行って生霊や死霊を呼び出して(口寄)、その霊に仮託して託宣や
呪術(神語り)を行ったと云う。